毒親、と呼ぶ前に
「毒親」という言葉が、わたしはあまり好きではありません。
それでも、その言葉にたどり着いてしまう人がいるのは確かです。
だからこそ、その言葉の手前と、もう少し奥のところを、一緒に見ていけたらと思います。
「毒親」という言葉を、よく見かけます。
自分の親はそうだったのかもしれない、と思い当たる人も、きっといると思うんです。
ただ、わたし自身は、この言葉があまり好きではなくて…
自分に毒親だった自覚があるから…とか言えるんですけど、そういう方向ではなくて…
その親にも、その親なりの理由があったはずだと思うからなんですね。
完全に愛のない状態から、子どもが生まれてくるわけではない、という感覚があるんです。
それに、「毒親だ」と思いたくなる子どもの側の心理、というのもある気がしていて。
自分がこんなに苦しいのは、自分がダメだからじゃなくて、親が毒だったからだ…そう置くと、一時的にはとても楽にはなります。
でも、「毒親の被害者である自分」という場所に居続けるかぎり、人生の主導権は、ずっと親の側に置かれたままになってしまうんですよね。
だから、ここでは誰かを裁くためではなくて、いま自分の中で自動的に動いているものに、名前をつけていくつもりで読んでもらえたらと思います。
世の中で「毒親」と呼ばれるとき、そこにはいくつかの形があります。
まずはそれを、感情を抜いて、種類として並べてみますね。
そのうえで、そういう環境に置かれた子どもが、どんなふうに世界を見るようになり、大人になってから何が起きやすいのか。
順番に降りていきたいと思います。
親子のあいだに起きること——その形と、残るもの
支配・コントロール型
進路や交友、結婚といったことを、親のほうが決めてしまう。子どもが自分で選ぶ前に、着地点が用意されている。
たとえば、美術系に進みたいと言ったときに、「あなたには公務員が向いている」と、親が願書を取り寄せてくる。
本人が迷う前に、もう進路が決まっているんですね。
こういう環境で育つと、自分の「やりたい」が、だんだん分からなくなっていきます。
何かを選ぶ場面で、まず「どうすれば正解か」を外に探す。
自分の感覚より、他人の答えのほうが信用できる、という世界の見方になっていくんです。
大人になってからは、たとえば、内定が二つ出ても自分で選べなくて、親や同僚に「どっちがいいと思う?」と聞いて回り、最後まで決められない。
結婚を決めても、式の直前まで「本当にこの人でいいのか」が消えなくて、決めた相手より、助言してくれた人の言葉のほうを握りしめている。
そんなことが起きやすくなります。
過干渉型
子どもの生活の細部にまで、踏み込んでくる。本人のいないときにスマホを見て、友達とのやり取りを把握する。
帰りが遅いと、誰とどこにいたのか細かく問いただす。
境界線が、ないんですね。
そうすると、一人になれる内側の領域が、持てなくなります。
常に見られている感覚が残って、大人になっても「監視されている」前提で動いてしまう。
秘密を持つこと自体に、強い罪悪感がわくんです。
たとえば、恋人から「今日は何してたの?」と聞かれただけで、詰問されている気がして身構える。
一人で過ごす休日をつくると、相手に悪い気がして、つい予定を入れてしまう。
仲が深まるほど息苦しくなって、急に連絡を減らしたくなる。
そういう揺れが出てきやすくなります。
過保護型
失敗や困難から、子どもを遠ざけすぎる。たとえば、友達とけんかをすると、本人が話す前に、親が相手の家へ電話して解決してしまう。
子どもは、自分で関係を修復する経験を、持てないままになるんです。
すると、「自分には対処する力がない」という前提が、刷り込まれていきます。
困難を前にすると、自分で動く前に、誰かが助けてくれるのを待つ。
世界が、自分には手に負えない場所として映るんですね。
大人になると、たとえば、職場でクレーム対応や責任のかかる役が回ってくると、体調を崩したり、辞めたくなったりする。
一人暮らしや転職といった自立の節目で動けなくて、面倒を見てくれる相手のそばを、離れられなくなる。
ネグレクト(放任・無関心)型
食事や衛生、情緒的な世話が、与えられない。夕飯が用意されず、一人でコンビニで済ませる日が続く。
学校の行事や成績にも、関心が向かない。
子どもの存在そのものに、目が向かないんです。
そうすると、「自分は気にかけられる価値がない」と感じるようになります。
求めても返ってこない経験が積み重なって、やがて、求めること自体をやめてしまう。
人に期待しないことが、傷つかないための構えになっていくんですね。
たとえば、高熱でも誰にも言わず、一人で病院へ行って、あとで「なぜ言わなかったの」と驚かれる。
親しくなりかけると、自分から引いてしまう。
あるいは逆に、優しくしてくれた相手にのめり込んで、相手が引くほど追ってしまう。
両方に振れることがあります。
条件付きの愛情型
成績や態度、成果がいいときだけ、承認する。テストでいい点を取ったときだけ機嫌よく話しかけてくれて、点が悪いと口をきいてもらえない。
ありのままの存在は、認めてもらえないんです。
こうなると、成果を出し続けないと愛されない、という前提で生きるようになります。
ありのままの自分には価値がないと感じて、走り続ける。
達成しても安心は長続きしなくて、すぐ次の成果を探してしまう。
たとえば、有給を取ると落ち着かなくて、休んでいる自分に罪悪感がわく。
昇進しても喜びは一瞬で、すぐ次の目標を探す。
何もしていない自分を好きでいてくれる相手を前にすると、かえって「なぜこの人は自分といるんだろう」と不安になる。
そんなことが起きやすいんです。
否定・けなし型
容姿や能力、性格を、繰り返し否定される。「あんたは要領が悪い」「お姉ちゃんはできるのにね」と、日常的に言われる。
何かを見せても、まず欠点を指摘されるんですね。
すると、自分の中に、常に自分をけなす声が住みついてしまいます。
何をしても「どうせダメだ」が先に立つ。
他人の評価に過敏になって、ほめられても素直に受け取れなくなるんです。
たとえば、応募したい求人があっても「どうせ受からない」と、出す前にやめてしまう。
プレゼンで九割ほめられても、最後の一言の指摘だけが頭に残って、眠れない。
好かれていると感じると居心地が悪くて、自分から関係を壊してしまう。
罪悪感植え付け型
「あなたを育てるために我慢してきた」「誰のおかげで大きくなれたと思ってるの」と、恩を着せられる。親に逆らうことに、強い後ろめたさを感じるようになるんです。
そうすると、自分の存在が誰かの負担だ、という感覚を持つようになります。
自分の欲求を持つこと、誰かに何かを頼むことに、罪悪感がわく。
常に「申し訳ない」が、土台にあるんですね。
たとえば、すでに手一杯なのに頼まれごとを断れなくて、自分の予定を削って引き受ける。
実家から電話が来ると気が重いのに、出ないと罪悪感で落ち着かない。
自分の希望を口にする前に、「わがままかな」と飲み込んでしまう。
役割逆転型(親子逆転)
子どもが、親の感情の世話役になる。親が配偶者の愚痴を、毎晩のように子どもに聞かせる。
子どもは親を心配し、慰め、家の空気を保つ役を担うんです。
そうすると、自分の感情より、相手の感情を先に察するのが当たり前になります。
人の機嫌を整えることが、自分の役割だと感じる。
自分が何を感じているかは、後回しのまま、だんだん分からなくなっていくんですね。
たとえば、恋人や友人の悩みは何時間でも聞けるのに、自分がしんどいときは誰にも言えない。
気づけば、いつも相談される側で、頼る・甘えるが分からない。
相手が自立していると物足りなくて、つい世話の焼ける相手を選んでしまう。
過度な期待・代理達成型
親が叶えられなかった夢を、子どもに託す。親自身が果たせなかった医者の夢を子どもに重ねて、「この家系は医者でないと」と、進路を一つに絞らせる。
子どもの人生が、親の達成の手段になってしまうんです。
すると、自分の人生なのに、自分のために生きている感覚が薄くなります。
期待に応えることと、自分の願いの区別がつかなくなる。
達成しても「これは本当に自分が望んだことか」という空虚さが、残るんですね。
たとえば、望んだ職に就いて周りに羨ましがられても、ふとした瞬間に「自分は何がしたかったんだろう」と分からなくなる。
親の期待していたレールを外れた途端、次に何を目指せばいいか見当がつかなくて、立ち止まってしまう。
支配的・暴力型
身体的な暴力や、暴言、威圧で従わせる。言うことを聞かないと手が出る、あるいは大声で怒鳴って黙らせる。
子どもは、恐怖で従うようになるんです。
そうすると、世界が、いつ危険が来るか分からない場所として映ります。
常に身構えて、相手の機嫌を読む。
怒りや恐怖に対して、固まるか、従うか、過剰に反応するか…その構えが、体に残るんですね。
たとえば、会議で誰かが声を荒げると、頭が真っ白になって何も言えなくなる。
強く出てくる相手に惹かれたり、逆に、自分が大事な人につい声を荒げて、あとで激しく後悔したりする。
穏やかな相手といても、いつ怒られるかと、気を抜けない。
性的侵襲型
年齢に見合わない身体への接触や、プライバシーの侵害がある。安全であるべき家の中に、その感覚が持てなくなるんです。
すると、自分の身体が自分のものだ、という感覚が揺らぎます。
安全と侵害の境目が分からなくなって、人との距離の取り方に、深く影響していく。
自分を守る権利があること自体を、あとから学び直す必要が出てくるんですね。
たとえば、信頼している相手との親密な場面でも、体がこわばる、または現実感が遠のく。
距離を詰められると逃げたくなる一方で、線を引きすぎて人を遠ざけてしまい、その間で揺れる。
ここは、一人で抱えなくていい領域だと思います。
宗教・信条強制型
特定の信仰や価値観を、絶対のものとして強制する。親の信仰する集まりへの参加を絶対とし、子どもが疑問を持つことも許されない。
内面の選択の自由が、認められないんです。
そうすると、自分で考え、疑い、選ぶ、という回路が育ちにくくなります。
「正しさ」は外から与えられるものだ、と感じる。
集団の外の世界への怖れと、内側で疑問を持つことへの罪悪感を、同時に抱えることになるんですね。
たとえば、自分の価値観を一から決め直す段になって、何を基準に選べばいいか分からず、途方に暮れる。
育った信条から離れるとき、家族を裏切る感覚と、強い喪失感に襲われる。
物事を白か黒かで判断しがちで、グレーを許せず、人間関係が窮屈になる。
気分変動型(予測不能型)
親の機嫌が、日によって激しく変わる。同じことをしても、昨日は笑っていた親が、今日は激怒する。
子どもは、何が地雷か分からなくて、常に顔色をうかがうんです。
すると、世界には安全な土台がない、という前提で生きるようになります。
常にアンテナを張って、相手の小さな変化を読もうとする。
安定した状態でも、いつ崩れるかと、気を抜けないんですね。
たとえば、上司やパートナーが少し無口になっただけで、「怒らせたかも」と一日中そわそわする。
穏やかで安定した関係を「刺激がない」と感じたり、逆に不安で、相手を試すような言動をしてしまったりする。
常に気を張っていて、理由もなく疲れている。
きょうだい差別型
きょうだいの間で、扱いに明確な差をつける。上の子には習い事もお小遣いも与えるけれど、下の子には「あなたは我慢して」と差をつける。
えこひいき、あるいは、特定の子をスケープゴートにする、という形ですね。
そうすると、「自分は選ばれない側だ」という感覚を持つようになります。
愛は限られていて、奪い合うものだと感じる。
自分の価値を、誰かと比べることでしか測れなくなっていくんです。
たとえば、同僚が評価されると素直に喜べなくて、自分と比べて落ち込む。
SNSで人の幸せを見るのがつらい。
認められようと無理に頑張りすぎるか、最初から「どうせ自分は」と勝負を降りてしまうか。
そのどちらかに振れやすくなります。
「これは自分かもしれない」と思った、あなたへ
ここまで読んで、思い当たることがあった人もいるかもしれません。
もしそうだとしても、まず知っておいてほしいことがあるんです。
気づいた直後に湧きやすいのは、親への怒りと、自分への落胆だと思います。
「あの育ち方のせいだ」と原因を確定させると、一瞬すっきりするんですよね。
でも、そこに留まると、人生の主導権は、また親の側に戻ってしまう。
気づきは、親を裁くためではなくて、いま自分の中で自動的に動いているパターンに名前をつけるために使う…ここがずれないことが、たぶん一番大事なんじゃないかと思います。
それと、もう一つ。
ここに並べたものは全部、その環境を生き延びるために、当時のあなたが身につけた戦略なんです。
だから、「直すべき欠陥」ではなくて、「もう使わなくていい古い癖」として見てほしくて。
責める対象ではなく、お疲れさま、と一度ねぎらえるものとして扱うほうが、力みが抜けて、変わりやすいんじゃないかと思うんです。
そのうえで、それぞれの形に応じて、心がけられたらいいなと思うことを、書いておきますね。
昼に何を食べるか、休みに何をするか…
小さな選択を、人に聞かずに自分で決める練習を積む。
間違ってもいい、を実地で確かめていくと、大きな選択でも、固まりにくくなっていくと思うんです。
過干渉型一人の時間を取ることに、自分で許可を出すこと。
近しい相手に息苦しさを感じたとき、それは相手が悪いのでも、自分が冷たいのでもなくて、昔の感覚が反応しているだけなんですよね。
距離を取りたい気持ちを、関係を壊すサインと混同しないことだと思います。
過保護型小さな「自分でやってみた」を、少しずつ増やすこと。
すぐ誰かに頼る前に、まず自分で一手やってみる。
失敗しても致命傷にならない場面で、対処の経験を貯めていくと、
「自分には手に負えない」という前提が、少しずつ書き換わっていくと思うんです。
ネグレクト型「求めること」を、自分に禁じていないか。
しんどいときに、一言「助けて」と言ってみる。
求めても返ってこなかった過去と、いま目の前の相手は、別なんだと頭で確認する。
のめり込みすぎる側に振れる人は、相手の反応を試す前に、一拍置くことを意識できたらと思います。
条件付きの愛情型「何も成し遂げていない自分」と一緒にいる時間を、あえて持つこと。
休むことに罪悪感がわいたら、それは価値が成果と結びついた古い回路なんだと気づく。
あなたの価値は出来高ではない、というのを、頭で何度も言い直していくところからだと思います。
否定・けなし型自分の中の「どうせダメだ」の声を、自分の本音と切り分けること。
それは親の声の録音であって、あなた自身の評価ではないんですよね。
ほめられて居心地が悪くなったら、逃げる前に「ありがとう」とだけ言って受け取ってみる。
練習として、少しずつで。
罪悪感植え付け型「断ること」と「自分の希望を口にすること」を、罪と切り離していくこと。
手一杯のときは、引き受ける前に一拍置く。
「わがままかな」と飲み込みかけたら、それを言うのは権利なんだと思い直す。
罪悪感がわくのは正常で、わいても断っていい、を両立させていけたらと思います。
役割逆転型「聞く側」から降りて、「頼る側」に回る練習。
しんどいとき、誰かに弱音を一つこぼしてみる。
相手の世話に回りそうになったら、その前に、自分は今どう感じているかを、先に自分に聞いてみる。
与えるだけでなく、受け取ることを、自分に許していくことだと思うんです。
過度な期待・代理達成型「これは本当に自分が望んだことか」を、ときどき自分に問い直すこと。
期待に応えた人生と、自分の願いを切り分ける。
何を望むか分からなくなっても、それは空っぽなのではなくて、ようやく自分の番が来た合図なんだと、捉えるところからだと思います。
支配的・暴力型強い感情の場面で体に出る反応を、まず「これは昔の防御反応だ」と認識すること。
固まる・従う・過剰反応の、どれが出ても、自分を責めない。
安心できる相手との間で、少しずつ「ここは安全だ」を体に教え直していく。
専門的なケアが、助けになる領域でもあります。
性的侵襲型自分のペースと境界を、自分で決めていいと知ること。
こわばりや、距離の取りにくさは、異常ではなくて、当然の反応なんですよね。
一人で抱え込まず、信頼できる専門家の手を借りることが、回復の大きな助けになる領域です。
ここは、無理に独力で進めなくていいところだと思います。
宗教・信条強制型白か黒かで決めなくていい、と自分に許すこと。
価値観を一から選び直すのは、時間がかかって当然で、迷っている状態のまま生きていい。
離れることへの罪悪感は、刷り込まれた感覚であって、あなたが悪いわけではないんだと、切り分けていけたらと思います。
気分変動型相手の機嫌の変化を、すぐ「自分のせい」に結びつけないこと。
相手が無口なのは、あなたとは関係のない理由かもしれない。
安定した関係を「物足りない」と感じたら、それは刺激のなさではなくて、警報が鳴っていない平穏なんだと、捉え直す練習をしていけたらと思います。
きょうだい差別型自分の価値を、誰かとの比較でしか測れなくなっていないか。
人と比べて落ち込んだら、その物差し自体が、借り物なんだと思い出す。
愛や承認は、奪い合う有限のものではない、を、頭で何度も確認していくところからだと思うんです。
全体を貫くのは、「気づいたあなたは、もう同じ環境にはいない」ということだと思います。
当時は逃げ場がなかったけれど、いまは自分で選び直せる。
その差を、一つずつ実地で確かめていく作業なんじゃないかと思うんです。
ここまで読んできた、あなたへ
ここから少しだけ、親の側の話をさせてください。
当時、逃げ場のなかった子どもだったあなたへ、です。
「それがどうしたの?」と思うかもしれません。
親の事情なんて知ったところで、自分が受けた痛みは消えないし、聞きたくもない、と。
その気持ちは、もっともだと思うんです。
それでも、なぜ親の背景を書いておきたいか。
親を理解してあげてほしいからではないんです。
許しなさい、と言いたいのでもないんです。
理由はひとつだけで
「自分が悪い子だったから、こんな扱いを受けたんだ」と、もう思わなくて済むようにです。
子どもは、自分に起きたことの理由を、自分の中に探します。
親がこうしたのは、自分がいい子じゃなかったからだ、自分に価値がなかったからだ、と。
そう考えるしかなかった。
でも、親があんなふうになったのには、その親自身の事情があったんですよね。
あなたの出来や価値とは、関係のないところで決まっていた。
それを知っておくことは、長く背負ってきた「自分のせいだ」を、そっと下ろすことだと思うんです。
なぜ、この問題は代を越えてつながっていくのか
ここまで読んで、「親も同じように育てられたから、同じことをするんでしょう」と思った人もいるかもしれません。
それは、確かにあります。
やられたことを、やってしまう。
叩かれて育った人が手を上げ、けなされて育った人がけなす。
否定できない、いちばん表に見える層だと思うんです。
でも、それだけだと、どこかしっくりこない気もするんですよね。
同じように育っても、子に同じことをしない人もいる。
傷ついた人が全員、傷つける側に回るわけじゃない。
だとすると、「同じように育った」の一段下に、もう一つ別の層があるはずなんです。
その層にあるのは、たぶん、感じきれなかった痛みなんだと思います。
誰にも受け止めてもらえず、言葉にもされず、悲しみきることも許されないまま、固まってしまった痛み。
これが、代を越えて移っていく本体なんじゃないかと思うんです。
感じて、見てもらえて、悼みきれた痛みは、そこで止まる。
けれど、行き場をなくした痛みは、その人の中にとどまっていられなくて、いちばん近くて、いちばん小さくて、いちばん安全な相手へと漏れ出していく。
それが子どもなんですよね。
その漏れ方が、類型によって違うんです。
同じ「感じきれなかった痛み」でも、どこをどう塞いで生き延びたかによって、子どもへの出方が変わってくる。
だから一つずつ、見ていきたいと思います。
支配・コントロール型
この親は、自分の人生を自分で選べなかった人なのかもしれません。やられたことをやっている、という浅い層で言えば、自分も親に決められて育った、ということになります。
でも、その下にあるのは、たぶん「無力感」なんだと思うんです。
自分の人生が思いどおりにならなかった、その底なしの不安。
それを感じきることができないと、人は、せめて手の届く何かを思いどおりにすることで、自分が無力ではないと確かめようとする。
子どもをコントロールできているあいだだけ、自分は無力じゃないと感じられる。
支配は、力の表れに見えて、本当は、感じきれなかった無力感の裏返しなんじゃないかと思うんです。
過干渉型
やられた層で言えば、この親もまた、踏み込まれて育ったのかもしれません。でもその下にあるのは、塞ぎきれなかった不安だと思うんです。
子どもが自分の見えないところにいる、それだけで落ち着かない。
その不安は、本当は子どものことではなくて、その親自身がかつて抱え、誰にも鎮めてもらえなかった不安なんですよね。
だから子どもの一挙手一投足を把握していないと、自分の中の不安が暴れ出す。
子どもは、その親の不安をなだめるための装置にされている。
愛の顔をしているけれど、流れているのは親自身の、行き場のない不安なのだと思います。
過保護型
この親も、誰かに先回りされて育ったのかもしれません。けれどその下には、感じきれなかった「喪失」や「後悔」が眠っていることが多い気がするんです。
過去に、大きく傷ついた経験。
痛い思いをして、それを悼みきれなかった。
すると、「この子にだけは、あの痛みを味わわせたくない」が、度を越して強くなる。
それはやさしさのようでいて、実は、自分が消化できなかった痛みを、子どもを通して避けようとしているんですよね。
子どもの力を信じられないのは、突き詰めると、痛みを乗り越えられなかった自分自身を、信じられていないからなのかもしれません。
ネグレクト(放任・無関心)型
やられた層では、この親自身が世話をされずに育った、ということになります。その下にあるのは、「愛情の注ぎ方を知らない」という、空白なんだと思うんです。
痛みを抱えているというより、痛みを向ける器そのものを持たないまま大人になった。
自分が一度も注がれたことがないものを、人は子どもに注げない。
冷たいのではなくて、関心の向け方を、そもそも教わっていない。
子どもに向けるはずの関心が、その親の中では、最初から空っぽの場所だった
感じきれなかったというより、感じる回路を持てなかった痛みなのだと思います。
条件付きの愛情型
この親も、成果を出したときだけ認められて育ったのかもしれません。でも、その下にあるのは、「ありのままで愛された記憶の不在」なんですよね。
ありのままで愛されたことがない人は、ありのままの誰かを愛する方法を、持ちようがない。
その親の中には、何かができなければ存在していてはいけない、と思い込んだ子どもが、まだいる。
だから、自分の子どもが何もせずただそこにいるのを、まっすぐ愛することができない。
「いい子なら愛する」は、その親が受け取った愛の、唯一知っている形を、そのまま手渡しているだけなんじゃないかと思うんです。
否定・けなし型
やられた層で言えば、けなされて育った人が、けなしている。けれどその下を見ると、この親の攻撃は、本当は子どもに向いていないことが多い気がするんです。
子どもがのびのびしている、自由にしている、その姿が、その親自身がかつて押し殺さなければ生きられなかった部分と、重なってしまう。
自分が禁じた「のびのびした自分」が、目の前で生き生きと動いているのを見ると、無意識に耐えられない。
だから叩く。
その否定は、子どもにではなく、本当は、自分の中で殺した自分自身に向けられたものなんじゃないかと思うんです。
だから受けた子どもは、理由が分からない。
理由は、自分の側になかったからなんですよね。
罪悪感植え付け型
この親も、「お前のために」と恩を着せられて育ったのかもしれません。でも、その下にあるのは、「自分の犠牲を、誰にも認めてもらえなかった」という、深い飢えだと思うんです。
私はこんなに我慢した、こんなに尽くした、それを見てほしい
その承認が、ついに与えられなかった。
すると、その渇きを、いちばん断りにくい相手に向けるしかなくなる。
子どもを罪悪感で縛るのは、本当は「私を見て、私の犠牲を認めて」という叫びなんじゃないかと思うんです。
意地悪ではなくて、認められなかった痛みが、形を変えて漏れている。
役割逆転型(親子逆転)
やられた層では、この親も、子どもの頃に親の世話をさせられたのかもしれません。その下にあるのは、満たされないまま大きくなった、子ども時代の飢えだと思うんです。
本当なら誰かに受け止めてもらうべきだった甘えや弱さが、宙に浮いたまま大人になってしまった。
そして、支えてくれる相手がどこにもいないとき、その飢えは、手の届く唯一の相手…自分の子ども…へ伸びていく。
子どもに甘えてはいけない、と頭では分かっていても、それ以外に支えを持たない。
これは弱さからの行為で、悪意ではないんですよね。
その親の中の、満たされなかった子どもが、自分の子どもにすがっているんだと思います。
過度な期待・代理達成型
この親も、自分の親の期待を背負わされて育ったのかもしれません。けれどその下にあるのは、感じきれなかった「挫折の痛み」なんだと思うんです。
自分が果たせなかった夢、選べなかった道。
その心残りを、悼みきることができなかった。
終わったものとして手放せなかった夢は、いちばん近くにいる子どもへ託される。
子どもを自分の延長のように感じてしまうほど、その挫折は大きく、消化されないまま残っていた。
子どもの人生を生きさせようとするのは、自分が生きそこねた人生を、なかったことにしたくないからなのかもしれません。
支配的・暴力型
やられた層では、暴力の中で育った人が、暴力をふるっている。その下にあるのは、たぶん、扱い方を教わらなかった感情の塊なんだと思うんです。
怒り、恐れ、屈辱
それをどう感じ、どう収めればいいかを、誰にも教わらないまま育った。
感情は、感じて、言葉にして、収まっていくものですよね。
でも、その経路を持たない人は、こみ上げたものを外へ叩き出すしか方法を知らない。
手を上げるのは、感情を処理する唯一知っているやり方だった、ということなのだと思います。
これは決して暴力を正当化する話ではありません。
ただ、あなたのせいではなかった、という一点を伝えたいだけなんです。
性的侵襲型
ここだけは、背景を語ることそのものを、慎重にしておきたいと思います。どんな事情があっても、子どもへの性的な侵害が正当化されることは、決してありません。
その大人自身がかつて何を抱えていたとしても、それは大人の側で引き受けるべきもので、子どもに向けてよい理由には、一切ならないんです。
だから、ここで伝えておきたいのは、背景の推測ではなくて、たった一つのことです。
それは百パーセント、その大人の側の問題であって、あなたには落ち度が、ひとつもなかった。
あなたが何かをしたから起きたのでは、決してないんです。
宗教・信条強制型
この親も、その信条の中で生まれ、それ以外の世界を知らずに育ったのかもしれません。その下にあるのは、「疑う自由を与えられなかった」という不自由だと思うんです。
自分で考え、迷い、選ぶ
その経験を一度も許されなかった人にとっては、信条を強制することが、「正しく愛すること」そのものになる。
疑いを持つことが、その親の中では、愛から外れる恐ろしいことだった。
だから子どもにも、疑う隙を与えない。
選ぶ自由をもらえなかった人は、選ぶ自由の渡し方を、知らないままなんですよね。
気分変動型(予測不能型)
やられた層で言えば、この親も、安定した土台のない家で育ったのかもしれません。でも、その下にあるのは、自分でも御しきれない、感じきれなかった何かの嵐だと思うんです。
心の不調や、抱えきれない過去や、収まらない波。
それが、その親の内側で、子どもとは無関係に荒れている。
昨日と今日で態度が変わるのは、子どもが何かをしたからではなくて、その親の中の天気が、勝手に変わっていたからなんですよね。
子どもは必死にその変化を読もうとするけれど、本当は、読みようがなかった。
理由は、子どもの外にあったんです。
きょうだい差別型
この親もまた、きょうだいの中で比べられて育ったのかもしれません。その下にあるのは、自分でも気づかない、心の中の選り分けだと思うんです。
特定の子に、自分の好きになれなかった部分を見てしまう。
あるいは、別の子に、自分のなりたかった姿を重ねてしまう。
それは意識してやっていることではなくて、その親自身の中の、整理されないままの感情が、子どもたちに投影されているんですよね。
差をつけられた子に価値がなかったのではなくて、その親の内側の事情が、たまたまその子の上に落ちた、ということなのだと思います。
こうして一つずつ見ていくと、形はばらばらでも、底に流れているものは、どこか似ているのが分かる気がします。
どの親も、感じきれなかった痛みを抱えていて、それを誰にも受け止めてもらえないまま、いちばん近い子どもへ漏らしてしまった。
無力感だったり、不安だったり、飢えだったり、挫折だったり、その中身は違うけれど、「感じきって、悼むことができなかった」という一点は、共通しているんじゃないかと思うんです。
そして、ここがいちばん大事なところだと思うんですが
だとすれば、この連鎖が止まる場所も、同じ一点なんですよね。
誰かがついに、その痛みを感じて、見てもらえて、悲しみきれたとき。
そこで、伝達は止まる。
連鎖を断つのは、理解でも、許しでもなくて、
「ようやく受け止めてもらえた」という、その一回なんじゃないかと思います。
あなたの代で…止めましょう…。
あなたを理解し、受け止める用意はできています。
よろしければ、お話を聞かせてくださいね。



くり返しますが、これは推測です。
親を許すためでも、理解してあげるためでもありません。
ただ、ここに並べた背景に、ひとつ共通していることがあります。
どれも、あなたの価値とは関係のないところで起きていた、ということです。
あなたがいい子でなかったからでも、愛される資格がなかったからでもない。
親の側の事情は、親の側で完結していたんです。
だから、もし長いあいだ「自分が悪かったからだ」と思ってきたのなら、その荷物だけは、ここで下ろしてもらえたらと思います。それは、あなたが背負うものではなかったのですから。
※ Zoom利用メニューにはWi-Fiなど通信環境が必要です。
※ 対面は2時間枠のみ・前払い制・キャンセル規定あり。
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>>三好成子のWEB予約ページはこちらです。
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