人を「神棚にあげる」心の癖をほどく
期待して、信じて、頼りたくて。
なのに、思い通りにならなかった瞬間、急にしんどくなる。
それはもしかすると、相手を“神様の位置”に置いてしまう癖が起動しているのかもしれません。
私を『守るべき』存在
人に期待しすぎてしまう。
あとで落ち込む。傷つく。
「もう信じたくない」と思う。
そんな経験があると、つい、
「期待しなければよかった」
「最初から信じなければよかった」
って、思ってしまいがちです。
ここで起きていること…
私たちは「期待している」という時に、
尊敬したい人/守ってくれるはずの人を、神様の位置に置いてしまうことがあるのです。
その瞬間から、期待値が跳ね上がって、落胆が深くなる…。
そんな構造のお話をしていこうと思っています。
親。先生。メンター。
「立派であってほしい」「分かってほしい」「守ってほしい」って思う存在がいたとしましょう。
私たちはそういう『自分を守るべき存在』に対して過剰な期待をしてしまうことがあります。
そう思う自分がいることは悪いことではないと思うんです。
それだけ必死だったし、それだけ支えが必要だった、というだけのことだと思うんです。
神棚にあげてしまう心理
尊敬したい人を、だんだん「普通の人」ではなく、・失敗しない人
・私を失望させない人
でもそれって、ちょっと言い方を変えると、
人間扱いしていない状態でもあるんですよね。
神棚に上げられた側は、どうして良いかわかりません。
神様ではありませんから…。
ミスもするし、弱い日もあるし、不出来なところがあって当たり前な、ただの人なのです。
けれど、神棚に上げてしまったこちら側にとっては、
その人は「神様であってほしい存在」になってしまうのです。
だから、期待値が上がりすぎることになります。
落胆
ここ、すごく大事なところなんですけど。
激しい失望や落胆って、神棚から下ろしたあとに起きるんじゃなくて、
神棚に乗せ続けている最中に始まっていることが多いんです。
「神様のはずなのに、なんか違う」
「こんなこと言う人だった?」
「どうして守ってくれないの?」
その違和感が出てきた時点で、もうズレは起きています。
でも、すぐには下ろせない。
だって、ここまで信じてきたし、助けてほしかったし、今も助けて欲しい。
「この人がいてくれたら大丈夫」という希望を、まだ持っていたいからです。
だから、神棚に乗せたまま、
期待しては落胆し、また期待しては落胆する。
その繰り返しで、心がだんだん疲れていきます。
神棚から下ろしてあげる
分かれ道
限界が来たとき、私たちはだいたい二つの下ろし方のどちらかを選びます。
「怒りで叩き落とす」か、「絶望を引き受けて、そっと下ろす」か。
① 怒りで引きずり下ろす
「裏切られた」「最低だ」「もう信じない」
これは、神棚から地面に叩きつけるような下ろし方です。
一時的にはスッとするとは思います。…でもね、ここが怖い。
② 絶望を引き受けて、そっと下ろす
もう一つの下ろし方は、きれいごとでは出来ないほど落胆して、絶望の淵に立たされて初めてできるような事を言いますね…。
正直、痛いです。
「助けてくれるべき人だと思っていたけど、そうじゃなかった」
「立派であってほしいと願っていたけど、そこまでの力はなかった」
それを認めてしまう事です。
出来ない…能力のない人に求めてしまっていたのか…。
それを認めるのは、やっぱり落胆です。
でも、この落胆は
世界が壊れる落胆ではなく、幻想が終わる落胆だと思うんです。
だからこそ、怒りで叩き落とすのではなく、そっと同じ高さへ戻せる。
そうやって下ろせたとき、初めて、
「この人の弱さ」も「未熟さ」も「できなかったこと」も、現実として見られる自分になります。
希望を捨てる話ではありません
この話は、希望を持つな、期待するな、という話ではありません。 期待が壊れたとき、どう下ろすかの話です。
神棚に上げていたのは、相手だけじゃなくて、
「この人がいれば大丈夫」という希望ごと、自分自身も神棚に上げていたのかもしれません。
それを下ろすことは、誰かを貶めることではなくて、
自分の人生を、自分の足元に戻すことなんだと思います。
もし今、誰かに期待して苦しくなっているなら。
まずは「私、あの人のことを神棚にあげちゃってたかもしれないな」って、気づくだけでもいいと思います。
気づけばそこから、下ろしていける心の準備が整うと思います。