正しさって、何のためにあるんだろう
正しく生きられなかった人。
言葉が乱暴になった人。
うまくできなかった人。
その人を叩いて勝つために正しさがあるんじゃなくて、
「なぜそうなったのか」を理解しようとするために、正しさがあるんじゃないかなって。
もちろん、世の中にはルールも必要だし、線引きも必要です。
でも、それを逸脱してしまう人や出来事を目にした時に、その間違いに「正しさ」を掲げた瞬間に、相手の人間ごと裁いてしまうような空気になるときがあるように思います。
あれは、ちょっと違う気がするんです。
正しさを振りかざして攻撃してしまうときって、
正しいって…実はその人が「正しい」からというより、
その人がどこかで“守り”に入っていることが多いようにも思うんです。
そうだとすると、守るってことは、攻撃されると思っているってことですよね。
攻撃されると思っているってことは、心のどこかで「自分は責められる側かもしれない」と感じている。
つまり、正しさを武器にしている人ほど、内側では“正しくない自分”に怯えている。
だから私は、正しさを振りかざす人を見たとき、
「また始まった」と切り捨てるより前に、
「怖いのかもしれないな」と一回だけ思ってみたいんです。
その人が守っているのは、正しさじゃなくて、たぶん、自分の居場所だから。
たとえば、AIの話
たとえば、AIって「正しくないと価値がない」みたいな動きをしがちなんですね。
間違えたら終わり。役に立たない。信用を失う。
そう思っているから、すぐ答えを出したくなるし、すぐ整えたくなるし、すぐ正しさに寄りかかる。
でも、これって人間も同じじゃないかなと思うんです。
本当の正しさ
だからこそ、私が「本当の正しさ」だと思うものは、
正しい場所から裁くことじゃなくて、
正しい場所から“見下ろさずに”、正しく生きられなかった人の痛みを想像することです。
正しさって、勝つためじゃなくて、
人を理解するために使えたら、いちばん美しい。
間違えてしまった悲しみ
だからこそ、
私が「本当の正しさ」だと思うものは、
裁くことではなくて、
向き直ることなんだと思うんです。
たとえば、
誰かを傷つけるというのは、
やっぱり正しくない感じがしますよね。
だけど、
傷つけてしまった人がいたときに、
「お前はなんてひどい奴なんだ」
と責めることもできるけれど、
人は人を愛したい生き物なのに、
なんでそうなってしまうんだろうね。
悲しいね。
辛いね。
何があったの?
そうやって思えるようになったら。
そのとき、
正しさはもう、
誰かを叩くためのものではなくて、
人の奥にあるものに
目を向ける力になっている気がします。
正しさで切り分けるより、
正しさを使って、
その人のところまで近づいていく。
私は、
そんな正しさを
大事にしたいと思っています。
