正しさに触れるほど、不安になる心の仕組み
「正しいはずなのに、なぜこんなに疲れるんだろう?」
「言っていることは正しいはずなのに、なぜかしんどい」
「どちらが正しいかを考え始めると、気持ちが落ち着かなくなる」
「何も言っていないのに、責められているような感じがする」
それは、意見が増えたからというよりも、“正しさ”に触れる機会そのものが増えたからなのかもしれません。
正しさは、本来は安心できるもののはずなのに
考えてみると、「正しさ」というのは、本来は人を安心させるものです。
- 間違っていない
- 責められない
- これで大丈夫だと思える
正しさは、不安を減らすための道具だったはずです。
それなのに、正しさに触れれば触れるほど、心がザワザワしたり、どこか落ち着かなくなったりする。
ここには、心理的な仕組みが関わっているように思います。
正しさが「判断」になると、心は緊張し始める
正しさがしんどくなるのは、それが「基準」ではなく、「判断」や「評価」として使われ始めたときです。
- 正しいか、間違っているか
- 味方か、敵か
- 分かっている人か、分かっていない人か
こうした二択の世界に入ると、人の心は一気に緊張します。
なぜならそこには、「間違えたら排除されるかもしれない」
「黙っていても、どちら側かに分類されるかもしれない」
そんな不安が生まれるからです。
正しさそのものが怖いのではなく、正しさの使われ方が人の心を追い詰めていくことがあるのだと思います。
正しさに触れて、不安になる人の心の中
正しさに触れたとき、不安が強くなる人の心の中では、こんなことが起きていることがあります。
- 自分は間違っていないだろうか
- 何か見落としているのではないか
- この場で黙っているのは、悪いことなのだろうか
これは、「正しいかどうか」を考えているようでいて、実は「安全かどうか」を確認している状態です。
正しさが問題なのではなく、その奥にある「安心できる居場所があるかどうか」が揺れている。
そう考えると、正しさに触れたときの不安も、少し違って見えてくる気がします。
正しさが強くなるほど、感情は置き去りにされやすい
正しさが前に出る場面では、感情は後回しにされがちです。
「それは感情論だ」
「事実としてどうなのか」
「冷静に考えれば分かるはずだ」
こうした言葉が飛び交うとき、感情は「持ち出してはいけないもの」のように扱われてしまいます。
でも、感情は消えてなくなるわけではありませんので、
行き場を失った感情は、不安や苛立ち、あるいは沈黙として残ります。
正しさが強くなるほど、なぜか息苦しくなる感じがするのは、このあたりと関係しているのかもしれません。
正しさに疲れたときどうるれば良いんだろう?
もし、正しさに触れるたびに疲れてしまうとしたら、
こんな問いを自分に向けてみてもいいかもしれません。
- 私は今、何に不安を感じているんだろう
- 安心したいのは、どんな部分なんだろう
- 本当は、誰に分かってほしいと思っているんだろう
正しさの議論から一歩離れて、自分の感情の位置を見てみる。
それだけでも、心の緊張が少し緩むことがあります。
正しさは、心を守るための道具であってほしい
正しさは、誰かを追い詰めるためのものではなく、
本来は心を守るための道具だったはずです。
少しだけ、距離を取ってみる
外の世界では、これからもしばらく、正しさをめぐる声は大きくなるかな?と感じています。
でもそのたびに、その声のすべてを受け止める必要もないのかな?と、私は思います。
一度、距離を取って、自分の感情がどこにあるのかを確かめる癖をつけると、正しさに引っ張られ過ぎずに済むのかなとも思います。
それは、逃げでも無関心でもなく、心を守るための選択だと思っています。
今日は、「正しさ」に触れるほど不安になる心の仕組みについて、そんなふうに眺めてみました。
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