夏目漱石の小説『三四郎』には、電車の中で弁当を食べる場面があります。
『この時三四郎はからになった弁当の折を力いっぱいに窓からほうり出した。折は電車の音といっしょに風を切って飛んで行った。
すると、向うにいた男の肩へ当たったらしく、男は立ちどまってこちらをにらんだ。三四郎は少し気の毒になった。』
中学生の頃にこのくだりを読んだとき、私は何も感じませんでした。
けれど今読めば「えっ、なんてことを!」と驚きます。
当時の漱石の描き方では、きちんとした人物でさえ、ごく自然に弁当箱を車窓から投げ捨ててしまう。
しかもそれが他人に当たっても、ほんの少し「気の毒になった」と思う程度で描かれている。
つまり、それが許容されていた時代の世界観がここに表れているのです。
私自身の体験を重ねてお話をしたいと思います。
そうすると、当時の空気がより身近に感じられるかな?と思います。
1950年代生まれの私の十代から二十代にかけて、電車の中でお弁当を食べても、煙草を吸っても、誰もとがめないという時代を生きていました。
電車通勤をしていた日のあるとき、隣で煙草を吸っていたおじいさんの火の粉が私の膝に当たり、軽く火傷をして「アチッ」となったことがありました。
そのときは、おじいさんも私も「ああ、ごめんごめん」で済ませてしまったのです。
私も「全くもう!気を付けてよね!」で収めてしまいました。
今なら絶対に「訴えてやる」そんな世界観になっているだろうと私は思います。
SNS投稿をして『こんなやつがいた』と書き込んでいるかもしれません…
私の中学生時代にも、同じように「今では考えられない」出来事がありました。
それは教職員先生方のストライキです。
突然学校が休みになり、当時の私は「やった、休みだ!」と無邪気に喜んでいました。
ところが翌日、先生が「昨日学校が休みになったことに疑問を持つ者はいないのか」と怒りをあらわにしたのです。
そのとき私は初めて「授業をボイコットする」という行為の意味を考えさせられました。
(当時の先生方は単なる給与だけでなく、「自分たちの仕事の評価のされ方」や「教育の自由」といった、教育者としての根本的な権利を賭けて声を上げていたらしいのです。)
大人たちが声をあげ、権利を主張することが、当時は社会の中に確かに存在していたのです。
また私には鉄道のストライキの記憶もあります。
電車が止まり、通勤できない大人たちが困っていた光景。
当時の旧国鉄職員は、【自分たちの待遇だけでなく、職場における一方的な人事や決定への抵抗】として、国民の生活を止めるという強い手段を選んでいました。
【労働者の基本的な権利を守る】という大義のもと、強大な組合の組織力がそれを可能にしていたのです。
今の日本では、鉄道や教職員がストをするなど想像もつかないかもしれません。
けれど、かつては社会を揺るがすストライキが現実にあって、人々が権利を訴える声が街中に響いていたのです。
そして、この声が静かになった背景には、【国鉄という重く大きな組織が、JRといういかにもおしゃれでスマートな名前に変わり、その存在そのものに関わる大きな変化】があったことも、忘れてはならないと、私は個人的には考えています。
あるときから、私たちは【社会を支える基盤が、誰のものなのか】、【何を守るためのものなのか】という問いを深く考えなくなり、【整然とした利便性】を最優先するようになったのかもしれません。
こうして振り返ってみると、昔の日本は決してきれいに整ってはいませんでした。
電車の中でお弁当を食べる人も、タバコを吸う人もいて、今の基準から見れば「なんてことを」と思うことがたくさんありました。
けれど、そこには人間臭さや曖昧さがあり、「まあ仕方ないな」と受け止める余白があったように思うのです。
心理学には「曖昧さ耐性(tolerance for ambiguity)」という言葉があります。
これは、自分と異なる価値観や予想外の出来事を受け入れる力のこと。
この力があると、人はすぐに「良い/悪い」を決めつけずにすみ、相手を尊重することができます。
日本人特有の“あいまいさ”は、はっきりしない弱点のようにも見えますが、実は争いを避けるための知恵でもあったのです。
そういえば日本には、昔から八百万の神という考え方がありますね。
木々や草木、川や石に至るまで自然の中のあらゆるものに神が宿るとされ、「お天道様が見ているよ」と子どもの頃に教えられた方も多いでしょう。
それは宗教的な教えというよりも、誰かに言われなくても正しい道を選ぼうとする〈内なる目〉を育てる文化でもありました。
目に見えない規範や、他者への配慮を自然に内面化している…そんな側面が、日本の「あいまいさ」の背景にはあるのだと私は感じています。
もちろん、現代の日本は多様な人々が行き交う社会になり、異なる宗教や価値観を持つ人々が移り住んでいます。
ほとんどの人は穏やかに暮らし、新しい文化を大切にしようと努めています。
でも時に「自分の信じるものが絶対に正しい」と強く主張する態度が対立を生み、互いの不信感や恐れを刺激することもあります。
私が感じる怖さはまさにそこにあります。
価値観の違いが「対話」ではなく「断罪」や「勝ち負け」に向かってしまうと、相互の尊重は失われ、社会の分断が深まってしまうからです。
今の日本は、とても整っていて、きれいで、安全な環境を持っています。
けれどその反面、ちょっとしたルール違反や違和感に過敏になり、批判や断罪がすぐに広がる社会にもなりました。
良い悪いのジャッジに縛られすぎると、相手を完全に否定することでしか安心できなくなり、終わりのない戦いが生まれてしまいます。
事実、長らく「声を上げない」と言われてきた日本でも、経済的な不安や社会の不公平感から、個人がSNSを使い、【異議を唱え、権利を主張する】動きが再び表面化し始めていますね。
これは、【整然とした社会】の裏側で、【個人が抱えきれなくなった不満】が限界に達しているサインかもしれません。
でもね、この新しい時代の【声】が【断罪】ではなく【対話】に向かうために、私たちにはある力が必要なんじゃないかと思うのです。
だからこそ今、私が大切にしたいのは「リスペクト」です。
誰かの声や生き方、あるいは理解できない行動に直面したとき、反射的に「良い/悪い」の線を引くことを、ほんの少しだけ踏みとどまる力を持ちたいと思っています。
昔の日本人が、八百万の神の存在を信じ、「お天道様が見ている」という内なる規範を持っていたように、私たちは、目に見えない他者の尊厳や、その背景にある物語を想像する必要があるように感じるのです。
「整った社会」とは、ルールや利便性だけで成り立つものではないと思うのです。
むしろ、その完璧な規律の裏側にこそ、人々の感情や不満が溜まりやすいように感じる今日この頃…
リスペクトとは、自分と異なる価値観や、整理されていない誰かの想いを前にしても、すぐに断罪せず「そういう考えもあるんだな」と、
一歩引いて受けとめる心の余白のことでもあると思います。
それは、曖昧さを恐れるのではなく、
「わからないこと」をそのまま受け入れる強さ、すなわち「曖昧さ耐性」の最も成熟した形なのだと思います。
私たちが、このやわらかなリスペクトを持ち続けることこそが、分断ではなく信頼とつながりを生み出す第一歩になるのではないでしょうか。
それぞれの暮らしや生き方、尊厳に尊敬の念を持って接していきたいのです。
時代の流れの中で一度は失われかけた日本のやさしさを、今こそ、私たち一人ひとりの心の余白に取り戻すことから始めたいと思います。

心から応援しています。
I support you wholeheartedly.
#生きとし生けるものが幸せでありますように
#May all living things be happy!
※ Zoom利用メニューにはWi-Fiなど通信環境が必要です。
※ 対面は2時間枠のみ・前払い制・キャンセル規定あり。
※ 料金は税込。最新の空き状況は予約ページでご確認ください。
>>三好成子のWEB予約ページはこちらです。
※初回無料カウンセリングは予約センターへのお電話で承っています。
【カウンセリング予約センター】
TEL:06-6190-5131
受付時間:12:00〜20:30(月曜定休・祝日の場合は翌日代休)
◆私あてのメッセージは、お問い合わせフォームからお気軽にどうぞ。