もう一人の私とは?
シャドウとは、光があたってできる影のように、人の心の影の部分を指します。私は美術系の学校を出ていますが、絵を描くときに影があるとないとでは、絵の奥行きがまるで違います。
同様に、シャドウは人の暗く否定的な側面を示しつつ、その人に深みと奥行きを与えるのです。
「ああ、この人には何か事情があるんだろうな」と思ったとき、その人の歩んできた道の困難さを感じ取れたことはありませんか?
いろんな経験を積んできた人は、同じような困難に立ち向かっている他人の気持ちも理解しやすくなります。これは信頼につながることが多いです。
シャドウが一概に悪いものとは言えませんが、もしそのシャドウが今の自分を苦しめているなら、それを理解して影を薄めることで、生きやすくなるかもしれません。
影は一般的にその人の心とは対立するもので、隠したくなる部分です。
統合することは容易ではありませんが、その統合とは、影を認めて一つになることです。
「ああ、この部分も私の一部で、光も影も私なんだな…」という感覚。
それが本当の自分です。
分断する必要はなく、ありのままの自分を受け入れることが大切です。
月の満ち欠けも同様で、影が月に映し出されて満ちたり欠けたりしているように見えますが、月は常にそこにあります。
私たちも同じで、影が多い日もあれば、光だけの日もあります。
自分の影を受け入れると、人に映し出す影、つまり「投影」も受け入れることができます。
影を暗いから、嫌われるから、悪い部分だからと分離させることは不自然です。
私も長い間、自分を分離させてきました。
完全に統合させることはまだできていませんけれどもね・・・。
悪は悪で、悪い私は排除されるから置いてきたのです。
人は自分が悪いと思うほど「自分は悪くない、相手が悪いんだ」と思うことがあります。
自分がイライラしている時、イライラしていないふりをします。
イライラする人に見られたくないからです。
でも、そんな自分の前にイライラした人が現れるとどうでしょう?「お前、何イライラしてんだよ!」と、それこそイライラしませんか?
自分の悪い部分は他人のものと感じられないことが多いです。
これは「投影」という心理が働いているんです。
例えば、自分がイライラしていないとき、目の前のイライラしている人を見て「何があったんだろう?」と客観的に見られるかもしれません。
でも、自分の中にイライラにまつわる要素があると、その人を許せなくなります。
他の人が嫌いな人をそれほど嫌っていないことに気づくこともあります。それは他の人たちがその部分のシャドウを持っていないからです。
それぞれの経験や思い込みの違いによるものなんですね。
影も光も、自分の一部として受け入れましょう。それが本当の自分を知る第一歩なのです。
自分の嫌いな部分を知る方法
私たちは、自分の嫌いな部分をどうやって知るのでしょうか。それは、人の振る舞いを見て、自分の中にある好き嫌いを知ることで初めてわかります。
嫌いな人がたくさんいる人は、自分の中に押さえている感情や、してはいけないことが多いとも言えます。
また、「普通こうでしょ?」という観念も強いはずです。

嫌いな部分を見つめる
「この人が嫌いだ」と思うとき、「この人の何が嫌いなんだろう?」と自問してみると、自分だったら絶対にしないことをその人がやっているから嫌いなんだ、という結論に行き着くことがあります。シャドウには「個人的無意識」の領域と「普遍的無意識」の領域があります。
個人的無意識の影は、私たちが自我を確立していく中でできる影です。
これは出してはダメだと押さえつけてなかったことにしてしまった自分の一部です。
その中には、人にやさしくあろうと努力してきた人に潜む攻撃性や残忍な部分も含まれます。
善でありたいと願う一方で、悪を押さえつけてきた反動が、心の奥底で攻撃性や残忍さを隠し持つようになっていることもあるのです。
こんな風に、善でありたいにも関わらず、突然現れる残忍な自分に恐れる人もいるでしょう。
でも、それは抑えれば抑えるほど強化されてしまう感情なので、怖がらなくてもいいのです。
シャドウという構図を理解していれば、その残忍さは押さえつけたシャドウが濃くなったものだと理解し、薄めていくことができます。

シャドウとしてなりえる三つの要素
シャドウとしてなりえる大きな三つの要素は、「殺してしまった」
「奪ってしまった」
「裏切ってしまった」です。
例えば、思春期の子供たちが「シね、クソババア」と言うことがあります。
これは反抗期の一環で、子供たちは思春期ならではの強い感情を抱えているので、よくあることなんですけど(私も何度か言われました〜)こういうこともシャドウとして自分の中に残って良いきます。
皆さんも、嫌な人を目の前にしたときに心の中で「お願い消えて」と思ったことも、あるいは「いなくなってほしい」と頭をよぎったこともあるかもしれません。
こういった感情も含めて、私たちは皆、シャドウを持っています。
このシャドウを押さえ込んで、「私にはそんな邪悪な心はありません」と装うほど、自分は本当はとんでもなく悪いのだと思えてくるのです。
ペルソナが強く光を放つほど、影は濃くなります。
普遍的無意識には、多くの人々に共通して「悪」としてとらえられてきたものがあります。昔話や民話に出てくる悪魔や鬼などがその例です。
自分の暗い部分と明るい部分
似たようなことは「暗い自分と明るい自分」という感覚にもあります。明るいのは良くて暗いのは悪いという観念があるのです。
人はいろんな部分を持っています。
完全に暗い性格や完全に明るい性格はありえません。
どんなに明るい人でも、どこかに暗い部分は持っていますし、どんなに暗い人でも明るさはあります。
この半分の自分を認めることで、本当の自分に戻り、愛の塊に戻っていきます。
善も悪も「そんなことあるよね〜」と自分に言ってあげることで、他人の善も悪も「そんなことあるよね」と思えるのです。
すると、自分の中から人に対する怒りも消え、不完全な自分と、不完全な他人がいることに気がつくと思います。
例えば、子供の頃にぐれていたお父さんが、自分の息子がぐれた時に「まあ、そんな頃もあるよね」と思いやすいのも同じことです。
もし、そのお父さんが自分の思春期のぐれた経験を
「なんであんなことをしてしまったんだろう」といつまでも後悔し、自分を許せなかったとしたら、ぐれた自分とぐれた息子のダブルパンチで悩んでしまうでしょう?
しかし、ぐれた経験を何かしらの「そうなるだけの理由」や「そこで得たもの」に変えていけたなら、目の前の息子に対する不安や恐れは消えるでしょう?
罪悪感やシャドウといった分離したもう一人の自分を認め、許し、
「これも私だね」と言ってあげることの大切さは、こういうところにあります。
影も光も、自分の一部として受け入れましょう。それが本当の自分を知る第一歩です。
お知らせ
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