お誕生日をきっかけに
私が生まれて、この年まで生きてこられた事に感謝しながら
親の愛について考えてみたいと思います。
私たちは誤解していることって本当に多いと感じます。
その中でも多いのは『私は 愛されていなかった』ことにしている事は、本当に多いと感じます。
確かに、私の思うように、私の愛してほしい方法で、ちゃんと愛してもらっていないと怒っているのかも知れません。
自分のことを守ってくれるべき人間(親とか、先生、先輩とかもそうでしょうか。)愛されて当然だとその時思っていた人たち、そういう存在だと自分が見ていた人たちに『ちゃんと愛してもらえなかった』と怒っていることがあります。
それくらい愛してほしかったし、守ってほしかった…
その思いがとっても強くなって、誤解をして怒ってしまったのかも知れませんね。
その怒りにあまりにもとらわれていて、前に進めなくなっているという人も いらっしゃいます。
そんな時、少しでも前に 進みたいと思う気持ちが 湧いてきたのならば、少しの勇気を出して、やってみてほしいことがあります。
すごく愛されたかった『あの人たち』ですが
「本当に愛されていなかったのかしら?」
「もしかしたら その部分が 誤解 だったとしたら?」と、あえて 考えて見てほしいなと思います。
心理学では、『欲しかったもの、欲しいものは自分から与えることをしてみましょう』ということを言います。
特に『愛』とか形の無いものは、与えることが難しいのです。
相手の欲しい形で与えることが、当に難しい事だと気づくようです。
自分から愛することを積極的に始めていくと、昔々、思うように愛してくれなかったと責めて、怒っていた『あの人』の気持ちがわかってきたりします。
愛したいのに愛せなかった事情がわかることがあります。
愛していなかったのではなく愛しかたがとっても下手くそだったり
親も、じゅうぶんな愛を与えてもらえていなかったのではないだろうか?
だとか
あなたが欲しい形ではなかったけれど、彼や彼女なりに精一杯愛そうとしていたことの片鱗に触れる事があったとしたら、その瞬間に、『あの人たち』への見方が少し変わって
もしかしたら・・・あなたが愛させていなかったのかも…
という事に気づいてみたりとかもあるのかもしれませんね。
相手も人間ですからね。
どう愛していいかわからなかった…と、悩んでいたのかもなぁ・・・と 気づくこともあるかもしれません。
あなたが愛する側に回ろうと決めた時、色んな物の見方が増えて、あなたの回りに愛があふれていたのだと気づく時があったりするといいな~♪などと思っているのです。
人は 成長します。
その成長が 今までの物事の見方を 変えてくれることがあります。
愛してもらうばかりの立場から、愛する側に自分の立ち位置を変えた時に
いろんな方向からいろんな立場の見方が出来るようになると《あの時の あの人たちの》気持ちに少し近づけたりして、自分のこころが 楽に なっていけるのかも知れませんね。

↑
古いアルバムで見つけました。
私の幼い頃の、たぶん、地域の親睦会みたいな旅行先での写真です。
両親と私
私…

拗ねてどこかへ行こうとしています。
困り顔の両親
愛しにくい 子ども だった 気がします。
うん。
両親ばかりを責めているのも、違うかな…と。
こういうことは忘れていて
「私は愛されていなかった~~~」と 言っていることって案外、あるかも知れませんね。
事実は私が愛させてあげていなかった…のかも知れません。
それでも親は 一生懸命 愛そうとしてくれていたのでしょうか?
両親なりの愛し方で。
愛がなかったのではなく
私の思うような愛ではなかっただけの話で
愛はあったのかもしれません。
そして、愛しにくい態度をとっていた自分がいたのかもしれません。
そのどちらも、愛はあったのです。
私が生まれて、この年まで生きてこられた事に感謝しながら
親の愛について考えてみたいと思います。
私たちは誤解していることって本当に多いと感じます。
その中でも多いのは『私は 愛されていなかった』ことにしている事は、本当に多いと感じます。
確かに、私の思うように、私の愛してほしい方法で、ちゃんと愛してもらっていないと怒っているのかも知れません。
自分のことを守ってくれるべき人間(親とか、先生、先輩とかもそうでしょうか。)愛されて当然だとその時思っていた人たち、そういう存在だと自分が見ていた人たちに『ちゃんと愛してもらえなかった』と怒っていることがあります。
それくらい愛してほしかったし、守ってほしかった…
その思いがとっても強くなって、誤解をして怒ってしまったのかも知れませんね。
その怒りにあまりにもとらわれていて、前に進めなくなっているという人も いらっしゃいます。
そんな時、少しでも前に 進みたいと思う気持ちが 湧いてきたのならば、少しの勇気を出して、やってみてほしいことがあります。
すごく愛されたかった『あの人たち』ですが
「本当に愛されていなかったのかしら?」
「もしかしたら その部分が 誤解 だったとしたら?」と、あえて 考えて見てほしいなと思います。
心理学では、『欲しかったもの、欲しいものは自分から与えることをしてみましょう』ということを言います。
特に『愛』とか形の無いものは、与えることが難しいのです。
相手の欲しい形で与えることが、当に難しい事だと気づくようです。
自分から愛することを積極的に始めていくと、昔々、思うように愛してくれなかったと責めて、怒っていた『あの人』の気持ちがわかってきたりします。
愛したいのに愛せなかった事情がわかることがあります。
愛していなかったのではなく愛しかたがとっても下手くそだったり
親も、じゅうぶんな愛を与えてもらえていなかったのではないだろうか?
だとか
あなたが欲しい形ではなかったけれど、彼や彼女なりに精一杯愛そうとしていたことの片鱗に触れる事があったとしたら、その瞬間に、『あの人たち』への見方が少し変わって
もしかしたら・・・あなたが愛させていなかったのかも…
という事に気づいてみたりとかもあるのかもしれませんね。
相手も人間ですからね。
どう愛していいかわからなかった…と、悩んでいたのかもなぁ・・・と 気づくこともあるかもしれません。
あなたが愛する側に回ろうと決めた時、色んな物の見方が増えて、あなたの回りに愛があふれていたのだと気づく時があったりするといいな~♪などと思っているのです。
人は 成長します。
その成長が 今までの物事の見方を 変えてくれることがあります。
愛してもらうばかりの立場から、愛する側に自分の立ち位置を変えた時に
いろんな方向からいろんな立場の見方が出来るようになると《あの時の あの人たちの》気持ちに少し近づけたりして、自分のこころが 楽に なっていけるのかも知れませんね。

↑
古いアルバムで見つけました。
私の幼い頃の、たぶん、地域の親睦会みたいな旅行先での写真です。
両親と私
私…

拗ねてどこかへ行こうとしています。
困り顔の両親
愛しにくい 子ども だった 気がします。
うん。
両親ばかりを責めているのも、違うかな…と。
こういうことは忘れていて
「私は愛されていなかった~~~」と 言っていることって案外、あるかも知れませんね。
事実は私が愛させてあげていなかった…のかも知れません。
それでも親は 一生懸命 愛そうとしてくれていたのでしょうか?
両親なりの愛し方で。
愛がなかったのではなく
私の思うような愛ではなかっただけの話で
愛はあったのかもしれません。
そして、愛しにくい態度をとっていた自分がいたのかもしれません。
そのどちらも、愛はあったのです。