こんにちは。三好成子です。
今日は幸せについてお話をしてみようと思います。
漠然とした幸せの概念の話と言うよりは
自分が幸せになるために、どういう行動をするのかというお話になります。
私は、カウンセラーと、お人形のドレス作りのお仕事と、あと、いくつか自分の能力を生かして収入を得ています。
その中の1つのお仕事で、なんだかこれは理不尽だなぁと感じる出来事がありました。
長くやってきた仕事の中の1つで(内容を言うとご迷惑がかかるかもしれないので、今回は詳しい事は伏せたままお話を進めていこうと思います)長年のお付き合いの中で「私たちの間では信頼関係ができているよね」と思っている人がいました。
私的には、その関係性の中で甘えていた部分もあったかもしれませんが、昨年からの秋口から冬にかけての私の怒涛の生活環境の嵐の中で、カウンセラーも含めていろんなお仕事を一時的にストップしなければならないことになっていました。
そして、今年に入って
母の事、借りていた家の事、引っ越し先でのことが徐々に落ち着きを取り戻して「さぁ、またお仕事始めるぞ」と、連絡をしたときの事でした。
私が受け持っていた部分を「他の人で埋め合わせたので私の出る幕がない」ような言い方をされてしまいました。
「1番苦しい時に助けてくれないんだ」
そんなふうに思ってしまった私は過去のことを振り返りました。
そういえば、少し無理をして、都合をつけてきたことや「信頼関係があるからね」と思って、目をつむってきたこと、いろんなことが思い浮かびます。
私は、この仕事に対して、充分な能力もあると自負しているし、みんなでチームとなって戦ってきたんだなと言う喜びさえ感じていました。
振り返ってみたときに、ふと「都合の良い時だけ使われていたのではない?」「この人にとって、私はただただ利用価値のある使い勝手の良い人だったのではないか」と、思ってしまったのでした。
私はこの仕事とこの仕事に関わっているその人たちを信頼し、信頼に応えようとし続けてきたように思います。
だけど、今現在のこの結果(扱い)を見て、私がこの人の思うように動かなかったときに、こんなふうにきれいさっぱり切り捨ててしまうんだ。…
そんな理不尽さを感じたのでした。
「別にこの仕事をしなくても生活に困るわけではないし…もういいよね」と、自分に言い聞かせてみるものの、なぜか頭の中は、くやしさと切なさと、なんとも言えない絶望感に陥ってしまったのです。
3ヶ月休んでいて、その間に、他の人が私のポジションについただけ。
冷静に考えると、ただそれだけのことでした。
なのに、どうしてこんなに頭の中が、悔しさと絶望感で、いっぱいになるほどにとらわれてしまうのだろう?
こういう時のほとんどの場合は、幼い頃の経験が、今の事実に上乗せして、感情が倍々ゲームのように膨らんでいることが多いんです。
元となる絶望を感じた出来事があって、あの時もそうだった、この時もそうだったと、どんどん感情が掛け算のように大きくなっていくようなんです。
私の今回の感情も、間違いなく、過去の何かが上乗せされて、その時にしっかりと出しておきたかった。抑圧された感情を吹き出させようとしているんだなと感じました。
この感情。
信頼して大好きだった人がいた。
それなのに、「私はただの使い勝手の良い《便利なコマ》なんだ」と感じたあの人への落胆。
これは間違いなく母への感情でした。
そして、これは完全な誤解であると言う事は、私の中の学びと経験で理解はしていました。
理解しているだけでは、収まらないものがあるようで…
今回の、この仕事の割り振りをしているのが女性であったと言うのも大きかったと思います。
私はこの女性が大好きで、仕事もできて尊敬をしていました。
だからこそ「私はただの使い勝手の良い駒なんだ」と感じた瞬間に、悲しみや怒りや絶望感が湧いて出たのでした。
今までであれば「どうせ私なんてこんな扱いなんだ」と、被害者の位置に立って、ただこの出来事を恨み悲しむと言うことをやっていたと思います。
だけど、今回は違いました。
「理不尽である」ということを真正面からぶつけに行きました。
これは、今までやって来なかった事でもありました。
この会社に対しても、母や父に対しても。
そして、会社の上層部までを巻き込んで、私の主張と権利を取り戻しました。
上層部の方が私の過去の努力や貢献を理解してくれている様でした。
いじけて、何もせずに、ただ自分の立場を悲しんでいた昔と違って、自分が今までやってきたこと、そして、これからこの仕事に対して、私がやっていけること、この2つの思いを傷つけることなく、私は私の価値を正当に取り戻しました。
こういう思いをされている方もいらっしゃると思いますが、理不尽だと嘆いてばかりではなく
自分のやってきたこと、これからあなたに与えられるであろう私の能力に対して、もっと自信を持てばいいと思います。
自分が自分に対して自信を持てばいいと思います。
人は、他人に対して自分の都合の良い見方をしていると思います。
もちろん私自身も、自分に都合の良い物事の見方をしているとも思っています。
だけど、理不尽な言動を受けたときに「それは私は受容できない」と言う強い思いがあってもいいと思います。
だって、今まで自分のできる範囲でやってきたし
これからも、自分のできる範囲でやっていこうと思うし
私はこの仕事この会社に対して、自分の価値を与え続けられると思ったからこそ、泣き寝入りをしないでいようと思ったのです。
結果、どうなったかと言うと
誰1人私を否定するものがなく「それはそうだよね」「そこは三好さんのポジションだよね」と言う空気に戻っただけでした。
自分のいるべき場所を取り戻しただけのことです。
結果、卑屈になることもなく、自分はこの場所にいてもいいんだと言う思いが強くなって、ますます意欲が湧いているところです。
この理不尽な結果を巻き起こしたその女の人に対しても何も思っていません。
3ヶ月の穴があったことは、確かで
彼女はその3ヶ月をなんとかしようと頑張っていたわけです。
何の悪意もなかったんですね。
彼女は彼女なりに頑張っていた。
そして彼女なりにこの方法でうまくいくだろうと思ったし、うまくもいっていた。
だけど、私がそのやり方に合意しなかった。
だから話し合って、今のやり方に落ち着いた。
ただ、それだけのことなんです。
そこに、私が傷ついたとか、あの人が私を傷つけたとか、そんな事実以外のことを巻き込んでしまうと、話は複雑になってしまうんです。
欲しいものは欲しいと言う。
だめなものはダメだと言う。
お互いにです。
自分の気持ちをはっきり伝えないと、そこには憶測と言う誤解が生まれます。
誤解は誤解を生みます。
その誤解をベースに物事を考えてしまいます。
誤解の先には、必ず「私は愛されていない」に着地します。
愛されていない私をベースに物事を見ると「どうせ私なんて、こんなもの」と言う出来事が起きます。
幸せからどんどん遠ざかっていくんです。
昔々、私が幸せから程遠いところにいた時に、幸せと言うのは、誰かが与えてくれるものだと思い込んでいました。
だから誰も私を幸せにしてくれないと嘆いていました。
長い長いその時代を経て、私は幸せは自分から掴み取りに行くものだと感じたのでした。
「人がどう思うと関係ないや」
と、自分にとって必要なものは手に入れるんだと、頑張って、歯を食いしばって掴み取ろうとしている時代もありました。
そういう時は、親密感とは程遠いところにいました。
そして、今は特別強い力を発揮するでもなく、理不尽だなと感じれば理不尽ですと言い
幸せであるべき私が幸せでないのであれば、何かが間違っているんだと、今のやり方を変えてみようとし続けてきた結果が今の幸せと充足感にあります。
幸せと言うのは、与えてもらうものでもなく
掴み取りに行くものでもなく
自分が自分らしくしていれば、勝手に流れ込んでくるものなんだなって思います。
#生きとし生けるものが幸せであります様に

その仕事に向かう私を送り出すワンコが可愛いです。
今日は幸せについてお話をしてみようと思います。
漠然とした幸せの概念の話と言うよりは
自分が幸せになるために、どういう行動をするのかというお話になります。
私は、カウンセラーと、お人形のドレス作りのお仕事と、あと、いくつか自分の能力を生かして収入を得ています。
その中の1つのお仕事で、なんだかこれは理不尽だなぁと感じる出来事がありました。
長くやってきた仕事の中の1つで(内容を言うとご迷惑がかかるかもしれないので、今回は詳しい事は伏せたままお話を進めていこうと思います)長年のお付き合いの中で「私たちの間では信頼関係ができているよね」と思っている人がいました。
私的には、その関係性の中で甘えていた部分もあったかもしれませんが、昨年からの秋口から冬にかけての私の怒涛の生活環境の嵐の中で、カウンセラーも含めていろんなお仕事を一時的にストップしなければならないことになっていました。
そして、今年に入って
母の事、借りていた家の事、引っ越し先でのことが徐々に落ち着きを取り戻して「さぁ、またお仕事始めるぞ」と、連絡をしたときの事でした。
私が受け持っていた部分を「他の人で埋め合わせたので私の出る幕がない」ような言い方をされてしまいました。
「1番苦しい時に助けてくれないんだ」
そんなふうに思ってしまった私は過去のことを振り返りました。
そういえば、少し無理をして、都合をつけてきたことや「信頼関係があるからね」と思って、目をつむってきたこと、いろんなことが思い浮かびます。
私は、この仕事に対して、充分な能力もあると自負しているし、みんなでチームとなって戦ってきたんだなと言う喜びさえ感じていました。
振り返ってみたときに、ふと「都合の良い時だけ使われていたのではない?」「この人にとって、私はただただ利用価値のある使い勝手の良い人だったのではないか」と、思ってしまったのでした。
私はこの仕事とこの仕事に関わっているその人たちを信頼し、信頼に応えようとし続けてきたように思います。
だけど、今現在のこの結果(扱い)を見て、私がこの人の思うように動かなかったときに、こんなふうにきれいさっぱり切り捨ててしまうんだ。…
そんな理不尽さを感じたのでした。
「別にこの仕事をしなくても生活に困るわけではないし…もういいよね」と、自分に言い聞かせてみるものの、なぜか頭の中は、くやしさと切なさと、なんとも言えない絶望感に陥ってしまったのです。
3ヶ月休んでいて、その間に、他の人が私のポジションについただけ。
冷静に考えると、ただそれだけのことでした。
なのに、どうしてこんなに頭の中が、悔しさと絶望感で、いっぱいになるほどにとらわれてしまうのだろう?
こういう時のほとんどの場合は、幼い頃の経験が、今の事実に上乗せして、感情が倍々ゲームのように膨らんでいることが多いんです。
元となる絶望を感じた出来事があって、あの時もそうだった、この時もそうだったと、どんどん感情が掛け算のように大きくなっていくようなんです。
私の今回の感情も、間違いなく、過去の何かが上乗せされて、その時にしっかりと出しておきたかった。抑圧された感情を吹き出させようとしているんだなと感じました。
この感情。
信頼して大好きだった人がいた。
それなのに、「私はただの使い勝手の良い《便利なコマ》なんだ」と感じたあの人への落胆。
これは間違いなく母への感情でした。
そして、これは完全な誤解であると言う事は、私の中の学びと経験で理解はしていました。
理解しているだけでは、収まらないものがあるようで…
今回の、この仕事の割り振りをしているのが女性であったと言うのも大きかったと思います。
私はこの女性が大好きで、仕事もできて尊敬をしていました。
だからこそ「私はただの使い勝手の良い駒なんだ」と感じた瞬間に、悲しみや怒りや絶望感が湧いて出たのでした。
今までであれば「どうせ私なんてこんな扱いなんだ」と、被害者の位置に立って、ただこの出来事を恨み悲しむと言うことをやっていたと思います。
だけど、今回は違いました。
「理不尽である」ということを真正面からぶつけに行きました。
これは、今までやって来なかった事でもありました。
この会社に対しても、母や父に対しても。
そして、会社の上層部までを巻き込んで、私の主張と権利を取り戻しました。
上層部の方が私の過去の努力や貢献を理解してくれている様でした。
いじけて、何もせずに、ただ自分の立場を悲しんでいた昔と違って、自分が今までやってきたこと、そして、これからこの仕事に対して、私がやっていけること、この2つの思いを傷つけることなく、私は私の価値を正当に取り戻しました。
こういう思いをされている方もいらっしゃると思いますが、理不尽だと嘆いてばかりではなく
自分のやってきたこと、これからあなたに与えられるであろう私の能力に対して、もっと自信を持てばいいと思います。
自分が自分に対して自信を持てばいいと思います。
人は、他人に対して自分の都合の良い見方をしていると思います。
もちろん私自身も、自分に都合の良い物事の見方をしているとも思っています。
だけど、理不尽な言動を受けたときに「それは私は受容できない」と言う強い思いがあってもいいと思います。
だって、今まで自分のできる範囲でやってきたし
これからも、自分のできる範囲でやっていこうと思うし
私はこの仕事この会社に対して、自分の価値を与え続けられると思ったからこそ、泣き寝入りをしないでいようと思ったのです。
結果、どうなったかと言うと
誰1人私を否定するものがなく「それはそうだよね」「そこは三好さんのポジションだよね」と言う空気に戻っただけでした。
自分のいるべき場所を取り戻しただけのことです。
結果、卑屈になることもなく、自分はこの場所にいてもいいんだと言う思いが強くなって、ますます意欲が湧いているところです。
この理不尽な結果を巻き起こしたその女の人に対しても何も思っていません。
3ヶ月の穴があったことは、確かで
彼女はその3ヶ月をなんとかしようと頑張っていたわけです。
何の悪意もなかったんですね。
彼女は彼女なりに頑張っていた。
そして彼女なりにこの方法でうまくいくだろうと思ったし、うまくもいっていた。
だけど、私がそのやり方に合意しなかった。
だから話し合って、今のやり方に落ち着いた。
ただ、それだけのことなんです。
そこに、私が傷ついたとか、あの人が私を傷つけたとか、そんな事実以外のことを巻き込んでしまうと、話は複雑になってしまうんです。
欲しいものは欲しいと言う。
だめなものはダメだと言う。
お互いにです。
自分の気持ちをはっきり伝えないと、そこには憶測と言う誤解が生まれます。
誤解は誤解を生みます。
その誤解をベースに物事を考えてしまいます。
誤解の先には、必ず「私は愛されていない」に着地します。
愛されていない私をベースに物事を見ると「どうせ私なんて、こんなもの」と言う出来事が起きます。
幸せからどんどん遠ざかっていくんです。
昔々、私が幸せから程遠いところにいた時に、幸せと言うのは、誰かが与えてくれるものだと思い込んでいました。
だから誰も私を幸せにしてくれないと嘆いていました。
長い長いその時代を経て、私は幸せは自分から掴み取りに行くものだと感じたのでした。
「人がどう思うと関係ないや」
と、自分にとって必要なものは手に入れるんだと、頑張って、歯を食いしばって掴み取ろうとしている時代もありました。
そういう時は、親密感とは程遠いところにいました。
そして、今は特別強い力を発揮するでもなく、理不尽だなと感じれば理不尽ですと言い
幸せであるべき私が幸せでないのであれば、何かが間違っているんだと、今のやり方を変えてみようとし続けてきた結果が今の幸せと充足感にあります。
幸せと言うのは、与えてもらうものでもなく
掴み取りに行くものでもなく
自分が自分らしくしていれば、勝手に流れ込んでくるものなんだなって思います。
#生きとし生けるものが幸せであります様に

その仕事に向かう私を送り出すワンコが可愛いです。