皆さんこんにちは。三好成子です。
今日も相変わらずなんてことない1日を過ごしています。
先週末は、私の母校である神戸メンタルサービスのヒーリングワークに出ていました。
(神戸メンタル?ヒーリングワーク?と思った人は文字をクリックしてみてね。)
講座やワーク中はzoom配信がしやすい部屋を使うので今回も実家に帰っておりますが、いつもよりちょっと長めに三重県の実家で過ごしております。
母の容体も安定はしているけれども、鼻からチューブを入れて流動食をとっているので、面会に行くたびに痩せていきます。
看護師さんに「娘さんが来たよってわかるとお母様もきっと励みになると思うので、どうぞゆっくり会ってあげて下さい」と言っていただきます。
その時ちらっとですが、「そうなんだろうか?」と言う疑いが生まれます。
「私を施設に入れて」とか「帰りたかったのに帰してくれなかったんだろう?」とか、「そのせいでこんな姿になっちゃったじゃないか」とか、
目の前の母からそんな言葉が聞こえてはこないかとビクビクしている自分に出会います
わかっています
カウンセラーですからわかっています。これはエゴの声です。
母を《私を愛さないひどい人》にしていると言うこともわかっているんですけど…
『どうしてあの時、家に連れて帰って、私が母の面倒を見ると決めなかったんだろう?』
そうしていたらこんなことにはならなかったかもしれないのに…という思が頭をかすめるのです。
自分が『母を愛せなかった』という…(これは誤解なんです.わかっているんです。)思いが一瞬で私の心を覆います。
「どうしてあの時、もっと母の気持ちを汲み取って、母の思うように、満足いくように振舞わなかったんだろう?」
「それをあなたは責めていますよね」
と思ってしまうんです。
面白いでしょう人って^^
わかりますか?
最初は愛なんです。
最初は愛から「こうしてあげたかった」って思うんです。
だけど人それぞれ自分なりの都合っていうものがあります。
してあげたいけど、出来ないことばっかりなんです、この世界は…
何もかも相手の思うようにしてあげられたとしたら、それはなんと幸せなことなんでしょう
と思います
だけど、人は毎日をその人なりに一生懸命生きているんです。
この世界のみんなが1人残らずみんなが一生懸命生きているんです。
その中で誰かのために何かをしたいと思ったとしてもできないこともたくさんあります。
優しければ、優しいほどやってあげればいいのにできなかったと言う思いにさいなまれます。
優しければ、優しいほど…
私の母の話に戻りますね。
看護師さんにどうぞ面会してやってくださいと言われて、母に会いに行った時にもうすでに母の面影はなく、そこには小さな年老いた人の姿がありました。
私たちは、自分が抗がって暴言を吐いたり嫌ったりできる位大きな存在の親が必要だったんです。
「この人には何を言っても大丈夫だろう」と思わせてくれる親が必要だったんです。
私たちにとって、自分よりも強い大きい存在に向かって抗がっていられる時が、多分…1番幸せなんだと思います。
小さくなった母を見て、つい「ごめんなさい」って言ってしまうんですけど。
多分それは違っていて、それは「ありがとう」なんだと思います。
いろんな感情をぶつけたけど、今こうして私が生きていると言う事は、あなたがあなたなりにちゃんと受け取って、それを愛で包み込んでくれていたからなんじゃないかなって思うんですね。
あなたなりに…です。
もっと違う形で、愛して欲しかったこともあったけど
それは同じように、あなたもそうだったんじゃないかなって思うんですね。
例えば、もっと素直な子が欲しかった。
例えば、もっと優秀で、完全に任せられる子供が欲しかったとかいろいろあったと思います。
残念でしたね、お母さん^^
お互い様ですね、お母さん^^
そう思うとなんだかちょっとほっこりしてきました。
あなたに「あなたが私の娘でよかった。と思ってくれている」そう、心から思えるまではまだもうちょっとだけ時間をください。
それはあなたがどうのこうのじゃなくて、私があなた「にこの子を産んで良かった」と、本当に思われているのかどうかを自分の感情に落とし込むまでもうちょっとだけ時間をください。
頭ではわかっているので、後は落とし込むだけですので。
だから、私がそう思えるまでお願いですから、頑張って生きていて下さい。
「ごめんなさい」が、「ありがとう」に完全に変わるまでもうちょっと時間をくださいね。
私がお母さんに恨まれていないと、本当に、100%思えるようになるまで形としてここにいて下さいね。
弱っていく母を見て悲しむのは「もう甘えられないんだな」って思ったからで
だとしたら、私は愛される側にまだいたんだなぁっていうことで…
こんなに小さくなった母に対して「怒ってる?」とか「恨んでるでしょ!」って言うのは、愛される側の立場の考え方なのねってちょっと感じたから
エイっ!って意識を変えて、完全に愛する側の立場であなたを見てみたいと思います。
お母さん、私でよかったですか?
お母さん、私はあなたでよかったです。

お母さん、あなたの植えたみかんの木に、今年もみかんがいっぱいなっていますよ
酸っぱい味もあれば、とっても甘い味もあります。
同じ木になりながらもみんな違うんですね。
この木の苗を植えた時に、お母さんが私に言いましたよね。
「お母さんが死んだ後も、このミカンの木を見て思い出してくれたらいいよ」
さすがですねお母さん。思うつぼになりそうです。
人は、人の記憶から消えたときに、その人の存在が終わるといいます。
そういえば、そういえば、お母さん。
家の中にあった先祖代々の遺影を全部片付けてお父さんだけの写真にしたのもお母さんでしたね。

おかげで、私は、ご先祖様の「この人誰?」と言う思いに惑わされずに(ご先祖さま ごめんなさい
)「お父さんこんなことがありましたよ」とか「お父さんこれはどうしたらいいんでしょうね?」とかお父さんに向き合ってお話がしやすいです。
だって、私が知っているのは、ご先祖様の中でおじいちゃんとお父さんだけなんですもの。
やっぱり知っている人の方が話しかけやすいですよ。
それに、私がチョイスした写真を遺影にして良かったと思います。
ちょっと若かりし頃のめちゃくちゃレアな笑っている写真。
「生前もこんなに笑って微笑みかけてくれてたら、もっと話しかけられたのにね。」とちょっと嫌味を言ってみたりもするんです。
そんな嫌味ですが、受け取ってくれそうな包容力のある笑顔ですね。
お父さん、もうちょっとお母さんを私の側に居させてくださいね。
よろしくお願いします。

人生はいろいろありますけど
美しいものもたくさんあります。
昨日の夕焼けもとても美しかったですよ。
私たちはみんな優しいから、あれもこれもしてあげたいと思うし、もっと愛したいと思うから、今の自分が未熟で何もできてないように思ってしまうんですけど…
今やっていることが私たちの精一杯なんですよね。
今できることをできる範囲でやっていけばいいのかなって思います。
今日のブログは完全に私事になってしまいましたけど、誰かの心に何かを届けられたらいいなと思って、思ったままのことをそのまま書いてみました。
このブログは、わたしにとって《母の植えたミカンの木》かもしれません。
では、また
ちなみに、奈良の家はまだよさげな物件が見つかっておりません。
娘と2人で、せっかく追い出されるんだから(言い方
)今よりももっと良い暮らしが出来るような物件を探そうねって言い合っているところです。
皆様に「よかったね」って言っていただけるような、そんな暮らしを報告できるようにあきらめずに探します。
応援どうぞよろしくお願いします。
今日も相変わらずなんてことない1日を過ごしています。
先週末は、私の母校である神戸メンタルサービスのヒーリングワークに出ていました。
(神戸メンタル?ヒーリングワーク?と思った人は文字をクリックしてみてね。)
講座やワーク中はzoom配信がしやすい部屋を使うので今回も実家に帰っておりますが、いつもよりちょっと長めに三重県の実家で過ごしております。
母の容体も安定はしているけれども、鼻からチューブを入れて流動食をとっているので、面会に行くたびに痩せていきます。
看護師さんに「娘さんが来たよってわかるとお母様もきっと励みになると思うので、どうぞゆっくり会ってあげて下さい」と言っていただきます。
その時ちらっとですが、「そうなんだろうか?」と言う疑いが生まれます。
「私を施設に入れて」とか「帰りたかったのに帰してくれなかったんだろう?」とか、「そのせいでこんな姿になっちゃったじゃないか」とか、
目の前の母からそんな言葉が聞こえてはこないかとビクビクしている自分に出会います
わかっています
カウンセラーですからわかっています。これはエゴの声です。
母を《私を愛さないひどい人》にしていると言うこともわかっているんですけど…
『どうしてあの時、家に連れて帰って、私が母の面倒を見ると決めなかったんだろう?』
そうしていたらこんなことにはならなかったかもしれないのに…という思が頭をかすめるのです。
自分が『母を愛せなかった』という…(これは誤解なんです.わかっているんです。)思いが一瞬で私の心を覆います。
「どうしてあの時、もっと母の気持ちを汲み取って、母の思うように、満足いくように振舞わなかったんだろう?」
「それをあなたは責めていますよね」
と思ってしまうんです。
面白いでしょう人って^^
わかりますか?
最初は愛なんです。
最初は愛から「こうしてあげたかった」って思うんです。
だけど人それぞれ自分なりの都合っていうものがあります。
してあげたいけど、出来ないことばっかりなんです、この世界は…
何もかも相手の思うようにしてあげられたとしたら、それはなんと幸せなことなんでしょう
と思います
だけど、人は毎日をその人なりに一生懸命生きているんです。
この世界のみんなが1人残らずみんなが一生懸命生きているんです。
その中で誰かのために何かをしたいと思ったとしてもできないこともたくさんあります。
優しければ、優しいほどやってあげればいいのにできなかったと言う思いにさいなまれます。
優しければ、優しいほど…
私の母の話に戻りますね。
看護師さんにどうぞ面会してやってくださいと言われて、母に会いに行った時にもうすでに母の面影はなく、そこには小さな年老いた人の姿がありました。
私たちは、自分が抗がって暴言を吐いたり嫌ったりできる位大きな存在の親が必要だったんです。
「この人には何を言っても大丈夫だろう」と思わせてくれる親が必要だったんです。
私たちにとって、自分よりも強い大きい存在に向かって抗がっていられる時が、多分…1番幸せなんだと思います。
小さくなった母を見て、つい「ごめんなさい」って言ってしまうんですけど。
多分それは違っていて、それは「ありがとう」なんだと思います。
いろんな感情をぶつけたけど、今こうして私が生きていると言う事は、あなたがあなたなりにちゃんと受け取って、それを愛で包み込んでくれていたからなんじゃないかなって思うんですね。
あなたなりに…です。
もっと違う形で、愛して欲しかったこともあったけど
それは同じように、あなたもそうだったんじゃないかなって思うんですね。
例えば、もっと素直な子が欲しかった。
例えば、もっと優秀で、完全に任せられる子供が欲しかったとかいろいろあったと思います。
残念でしたね、お母さん^^
お互い様ですね、お母さん^^
そう思うとなんだかちょっとほっこりしてきました。
あなたに「あなたが私の娘でよかった。と思ってくれている」そう、心から思えるまではまだもうちょっとだけ時間をください。
それはあなたがどうのこうのじゃなくて、私があなた「にこの子を産んで良かった」と、本当に思われているのかどうかを自分の感情に落とし込むまでもうちょっとだけ時間をください。
頭ではわかっているので、後は落とし込むだけですので。
だから、私がそう思えるまでお願いですから、頑張って生きていて下さい。
「ごめんなさい」が、「ありがとう」に完全に変わるまでもうちょっと時間をくださいね。
私がお母さんに恨まれていないと、本当に、100%思えるようになるまで形としてここにいて下さいね。
弱っていく母を見て悲しむのは「もう甘えられないんだな」って思ったからで
だとしたら、私は愛される側にまだいたんだなぁっていうことで…
こんなに小さくなった母に対して「怒ってる?」とか「恨んでるでしょ!」って言うのは、愛される側の立場の考え方なのねってちょっと感じたから
エイっ!って意識を変えて、完全に愛する側の立場であなたを見てみたいと思います。
お母さん、私でよかったですか?
お母さん、私はあなたでよかったです。

お母さん、あなたの植えたみかんの木に、今年もみかんがいっぱいなっていますよ
酸っぱい味もあれば、とっても甘い味もあります。
同じ木になりながらもみんな違うんですね。
この木の苗を植えた時に、お母さんが私に言いましたよね。
「お母さんが死んだ後も、このミカンの木を見て思い出してくれたらいいよ」
さすがですねお母さん。思うつぼになりそうです。
人は、人の記憶から消えたときに、その人の存在が終わるといいます。
そういえば、そういえば、お母さん。
家の中にあった先祖代々の遺影を全部片付けてお父さんだけの写真にしたのもお母さんでしたね。

おかげで、私は、ご先祖様の「この人誰?」と言う思いに惑わされずに(ご先祖さま ごめんなさい
)「お父さんこんなことがありましたよ」とか「お父さんこれはどうしたらいいんでしょうね?」とかお父さんに向き合ってお話がしやすいです。だって、私が知っているのは、ご先祖様の中でおじいちゃんとお父さんだけなんですもの。
やっぱり知っている人の方が話しかけやすいですよ。
それに、私がチョイスした写真を遺影にして良かったと思います。
ちょっと若かりし頃のめちゃくちゃレアな笑っている写真。
「生前もこんなに笑って微笑みかけてくれてたら、もっと話しかけられたのにね。」とちょっと嫌味を言ってみたりもするんです。
そんな嫌味ですが、受け取ってくれそうな包容力のある笑顔ですね。
お父さん、もうちょっとお母さんを私の側に居させてくださいね。
よろしくお願いします。

人生はいろいろありますけど
美しいものもたくさんあります。
昨日の夕焼けもとても美しかったですよ。
私たちはみんな優しいから、あれもこれもしてあげたいと思うし、もっと愛したいと思うから、今の自分が未熟で何もできてないように思ってしまうんですけど…
今やっていることが私たちの精一杯なんですよね。
今できることをできる範囲でやっていけばいいのかなって思います。
今日のブログは完全に私事になってしまいましたけど、誰かの心に何かを届けられたらいいなと思って、思ったままのことをそのまま書いてみました。
このブログは、わたしにとって《母の植えたミカンの木》かもしれません。
では、また
ちなみに、奈良の家はまだよさげな物件が見つかっておりません。
娘と2人で、せっかく追い出されるんだから(言い方
)今よりももっと良い暮らしが出来るような物件を探そうねって言い合っているところです。皆様に「よかったね」って言っていただけるような、そんな暮らしを報告できるようにあきらめずに探します。
応援どうぞよろしくお願いします。
