皆さんこんにちは。三好成子です。
今日も来ていただいてありがとうございます。
さて、今日の話題は
【私たちの体の中には、たくさんの私がいます】というお話をしていこうと思います。
私たちは終始一貫していることがすごく素晴らしいことなんだって、どこかで思っているように感じます。
それは確かに素晴らしいことなんです。
さっきあんなこと言っていたのに、もう違うことを言われたら、その人の何を信じていいのかわからなくなると言うのもよくわかります。
そんなに意見をコロコロ変えるなよと思う気持ちもわかります。
でもどうですか?
そんなに、ずっと、同じ気持ちでい続けることってできるのでしょうか?
私たちは、その瞬間瞬間に感じているものがあります。
体調もその一つです。
気分だって数秒で変わることもありますよね?
ほんの数秒前にちょっと態度の悪い人を見かけたとしますね。
すると、その人のなんだかの不機嫌さみたいなものがこちらに伝わってきたりすることありませんか?

それ以外にも「今日は爽やかな天気だな」と思うと、それだけでなんだかいつもより晴れやかにになったような気持ちにもなります。
逆に、例えば…蒸し暑かったり、ちょっと雲が多くて青空が見えていなかったりすると
「せっかくのお休みなのに、残念だなぁ」と、ちょっとネガティブな感情が自分の中に入り込んでくる事はありませんでしたか?
私たちは、自分の中にあるものを外に映し出していると言われているんですね。
自分の感覚にないものは感じられないといいます。
私たちが何かを見て、何かを感じた時に
「こんなふうに感じさせられた」と思うのも
「あの人がいたおかげでちょっとウキウキしちゃった」と思うのも、私たちの中にある感情を引き出してくれていると考えることだってできるんですね。
いろんな感情が私たちの中にあって、出会う人によってそれが引き出されているという感じです。

なんだか嫌なこと言われて「不愉快になったわ」と、誰かと接したときに急に感情が変わったりすることってありますよね?
私たちはコロコロ感情が変化しているものなんです。
私たちの体って、ものすごくたくさんの、とんでもない量の細胞が毎日毎日何かの働きをして《私》と言う1つの個体を作ってくれているんです。
日焼けをし過ぎた表皮がポロポロと落ちてくるのも、《私》の細胞が痛んだものを落として新しいもの再生させようとしている証だったりします。
《私》使っている《小さな私たち》は、実は瞬間瞬間にいろんな私たちを入れ替えていたりすると考えてもいいんじゃないかと思うんです。
突然何の話をしているんだ?と思うかもしれないんですけど…
過去の出来事に縛られて、過去の私をずっと引きずっている事ってありませんか?

過去に「しまった!」「あんな事しなきゃよかった」という事を《やらかしてしまったダメな私》として、変わらない《私》として持ち続けています。
みんなそれぞれに、今よりも若かった過去があるわけです。
嫌な思いをしたりとか、未熟さゆえに誰かを傷つけてしまったり、多少なりともあると思うんですね。
私もあまりの未熟さゆえに、いろんな人に迷惑をかけたり、恥ずかしい思いをしたり、あんなことしなければよかったと思うような角がてんこ盛りです。
こんな出来事を全部忘れてしまいたい、私の過去を知っている人を全部切り捨ててしまいたいとどんなに思ったことでしょう。
だけど、もし切り捨ててしまえば、同じ過ちを何度も何度も繰り返すことになるかもしれません。
「あ〜しまった。今度はもうあんな事しないように…」と、過去の経験を修正しながらここまで来たからこそ、過去の未熟さが理解出来ているんです。
私たちはどうしようもなく、だめな自分と言う過去をいっぱい増産して生きてきました。それぞれに…

私だけではなく、私以外の多くの人たちが同じような思いをして「もっとちゃんとしとけばよかった」と、自分の過去の未熟さを必死で乗り換えようとして頑張って生きてきました。
それはこの世界に住むたくさんの人たちがやっていることだと思います。
有名な人や、著名人は、過去の記録が映像や文章やいろんなもので残されていたりします。
どうしても昔の自分と今の自分は違うんだと理解してもらいにくいこともあるかもしれません。

過去にすごくいけないことをしたとしても、その人たちはいけないことをする人として、この世に存在しているのでしょうか?
《若気の至り》の事もあるはずです。
成長と共に「もうちょっと優しくなろう」「これはダメだったな。」と修正していく事もいっぱいあっただろうと思います。
私にもいっぱいあります。
「なんであんなことをしたんだろうな?」って思うこともいっぱいあります。
それも私だし、「悪かったなぁ。」「もう誰も傷つけたくは無いよね」と思っている。そんな今の私も私なんです。
疲れてくれば、怠惰な心も浮かんできます。
美しい心ばかりが、いつも私の中200%を占めているわけじゃないなぁって思うこともあります。
例えば、すごく駄目だったときの私を知っている人と街で偶然出会ったとします。
その人の中にはダメな私、最悪な私がイメージとして焼き付いているかもしれません。
逆に、私がいじめられていた頃のクラスメイトと出会ったとしたら、私の中には『またいじめられる』と瞬時に緊張するかもしれません。

でも、それは仕方のないことで、その人がそう思うのであれば、その人の中で私はその人の思う私で止まっているだけのことなんです。
実際は、最悪な自分を一生懸命乗り換えようとして頑張ってきた私がいるんです。
そして、そのいじめっ子も同じかもしれません。
あんな私もいたし、こんな私もいる。
そして未来にはもうちょっとマシで、いようと頑張ってきた私がいるはずなんです。
あなたがいるはずなんです。
私たちの人生の1部を切り取ったときに、その部分を知っている人が、この人はこういう人だと決めてしまっていたとしても仕方がないと思うんです。
そんな自分もいたわけです。
だけど《私》は知っています。
その自分を、なんとか誇らしい自分に変えようと必死になってもがいて生きてきたことも《私》は知っています。
《私》がそのことを知っているから、きっと私が記憶している《あの時のあの人》だって、あの時のままで終わっているはずはないと確信しています。
人は、失敗せずに、生きていけたとしたら、どんなに楽なんでしょう?
人が失敗せずに、生きていたとしたら…
人がなぜ失敗をしてしまうのかがわからないまま、その失敗をする意味がわからなくて…
とんでもない失敗をしてしまった人のその後の頑張りももしかしたらわからなくて…
「この世の中には、いい人と悪い人の二種類がいる。」そんな考え方をしてしまっていたかもしれないな…
と思うと、
過去を振り返ったときに「ろくな人生ではなかったけど、ろくでもない過去が私に多様性を与えてくれたんだな」と思えるようになったんだから、自分のどんな過去も認めて責めず、人のどんな過去も認めて責めずに生きていきたいなぁって思います。
今日も来ていただいてありがとうございます。
さて、今日の話題は
【私たちの体の中には、たくさんの私がいます】というお話をしていこうと思います。
私たちは終始一貫していることがすごく素晴らしいことなんだって、どこかで思っているように感じます。
それは確かに素晴らしいことなんです。
さっきあんなこと言っていたのに、もう違うことを言われたら、その人の何を信じていいのかわからなくなると言うのもよくわかります。
そんなに意見をコロコロ変えるなよと思う気持ちもわかります。
でもどうですか?
そんなに、ずっと、同じ気持ちでい続けることってできるのでしょうか?
私たちは、その瞬間瞬間に感じているものがあります。
体調もその一つです。
気分だって数秒で変わることもありますよね?
ほんの数秒前にちょっと態度の悪い人を見かけたとしますね。
すると、その人のなんだかの不機嫌さみたいなものがこちらに伝わってきたりすることありませんか?

それ以外にも「今日は爽やかな天気だな」と思うと、それだけでなんだかいつもより晴れやかにになったような気持ちにもなります。
逆に、例えば…蒸し暑かったり、ちょっと雲が多くて青空が見えていなかったりすると
「せっかくのお休みなのに、残念だなぁ」と、ちょっとネガティブな感情が自分の中に入り込んでくる事はありませんでしたか?
私たちは、自分の中にあるものを外に映し出していると言われているんですね。
自分の感覚にないものは感じられないといいます。
私たちが何かを見て、何かを感じた時に
「こんなふうに感じさせられた」と思うのも
「あの人がいたおかげでちょっとウキウキしちゃった」と思うのも、私たちの中にある感情を引き出してくれていると考えることだってできるんですね。
いろんな感情が私たちの中にあって、出会う人によってそれが引き出されているという感じです。

なんだか嫌なこと言われて「不愉快になったわ」と、誰かと接したときに急に感情が変わったりすることってありますよね?
私たちはコロコロ感情が変化しているものなんです。
私たちの体って、ものすごくたくさんの、とんでもない量の細胞が毎日毎日何かの働きをして《私》と言う1つの個体を作ってくれているんです。
日焼けをし過ぎた表皮がポロポロと落ちてくるのも、《私》の細胞が痛んだものを落として新しいもの再生させようとしている証だったりします。
《私》使っている《小さな私たち》は、実は瞬間瞬間にいろんな私たちを入れ替えていたりすると考えてもいいんじゃないかと思うんです。
突然何の話をしているんだ?と思うかもしれないんですけど…
過去の出来事に縛られて、過去の私をずっと引きずっている事ってありませんか?

過去に「しまった!」「あんな事しなきゃよかった」という事を《やらかしてしまったダメな私》として、変わらない《私》として持ち続けています。みんなそれぞれに、今よりも若かった過去があるわけです。
嫌な思いをしたりとか、未熟さゆえに誰かを傷つけてしまったり、多少なりともあると思うんですね。
私もあまりの未熟さゆえに、いろんな人に迷惑をかけたり、恥ずかしい思いをしたり、あんなことしなければよかったと思うような角がてんこ盛りです。
こんな出来事を全部忘れてしまいたい、私の過去を知っている人を全部切り捨ててしまいたいとどんなに思ったことでしょう。
だけど、もし切り捨ててしまえば、同じ過ちを何度も何度も繰り返すことになるかもしれません。
「あ〜しまった。今度はもうあんな事しないように…」と、過去の経験を修正しながらここまで来たからこそ、過去の未熟さが理解出来ているんです。
私たちはどうしようもなく、だめな自分と言う過去をいっぱい増産して生きてきました。それぞれに…

私だけではなく、私以外の多くの人たちが同じような思いをして「もっとちゃんとしとけばよかった」と、自分の過去の未熟さを必死で乗り換えようとして頑張って生きてきました。
それはこの世界に住むたくさんの人たちがやっていることだと思います。
有名な人や、著名人は、過去の記録が映像や文章やいろんなもので残されていたりします。
どうしても昔の自分と今の自分は違うんだと理解してもらいにくいこともあるかもしれません。

過去にすごくいけないことをしたとしても、その人たちはいけないことをする人として、この世に存在しているのでしょうか?
《若気の至り》の事もあるはずです。
成長と共に「もうちょっと優しくなろう」「これはダメだったな。」と修正していく事もいっぱいあっただろうと思います。
私にもいっぱいあります。
「なんであんなことをしたんだろうな?」って思うこともいっぱいあります。
それも私だし、「悪かったなぁ。」「もう誰も傷つけたくは無いよね」と思っている。そんな今の私も私なんです。
疲れてくれば、怠惰な心も浮かんできます。
美しい心ばかりが、いつも私の中200%を占めているわけじゃないなぁって思うこともあります。
例えば、すごく駄目だったときの私を知っている人と街で偶然出会ったとします。
その人の中にはダメな私、最悪な私がイメージとして焼き付いているかもしれません。
逆に、私がいじめられていた頃のクラスメイトと出会ったとしたら、私の中には『またいじめられる』と瞬時に緊張するかもしれません。

でも、それは仕方のないことで、その人がそう思うのであれば、その人の中で私はその人の思う私で止まっているだけのことなんです。
実際は、最悪な自分を一生懸命乗り換えようとして頑張ってきた私がいるんです。
そして、そのいじめっ子も同じかもしれません。
あんな私もいたし、こんな私もいる。
そして未来にはもうちょっとマシで、いようと頑張ってきた私がいるはずなんです。
あなたがいるはずなんです。
私たちの人生の1部を切り取ったときに、その部分を知っている人が、この人はこういう人だと決めてしまっていたとしても仕方がないと思うんです。
そんな自分もいたわけです。
だけど《私》は知っています。
その自分を、なんとか誇らしい自分に変えようと必死になってもがいて生きてきたことも《私》は知っています。
《私》がそのことを知っているから、きっと私が記憶している《あの時のあの人》だって、あの時のままで終わっているはずはないと確信しています。
人は、失敗せずに、生きていけたとしたら、どんなに楽なんでしょう?
人が失敗せずに、生きていたとしたら…
人がなぜ失敗をしてしまうのかがわからないまま、その失敗をする意味がわからなくて…
とんでもない失敗をしてしまった人のその後の頑張りももしかしたらわからなくて…
「この世の中には、いい人と悪い人の二種類がいる。」そんな考え方をしてしまっていたかもしれないな…
と思うと、
過去を振り返ったときに「ろくな人生ではなかったけど、ろくでもない過去が私に多様性を与えてくれたんだな」と思えるようになったんだから、自分のどんな過去も認めて責めず、人のどんな過去も認めて責めずに生きていきたいなぁって思います。







