週一で母のお世話になっている施設に洗濯物を届けてきました。
昨今の影響で、面接が中止になっている事もあって、担当してくださる若いスタッフさんがいらっしゃって、母の施設での日常を逐一伝えてくださいます。

最初は、気に入らない事があると「ぷぃ」っとお部屋に戻っていた母でしたが、新しい建物にお引越しをして、親身になってお世話をしてくださるスタッフさんのおかげもあって「いつもニコニコして穏やかに過ごしています」と、教えていただきました。
常に孤独で闘争的だった母の姿はそこにはありません。
いつも孤独で、自分のことは自分でする!という母も、自分のことすら自分で出来なくなっていきました。
その葛藤もあったでしょうけど、人がいる暮らしに安堵感を得ている様です。
自分はこんな暮らしはしたくない!
そう思っているのは、その時出来ることが多いからで、一人でなんでも出来るからで、誰の助けも受けたくない!という意思が貫けるからなんです。
だけど、神様は、ちゃんとやり残した事を履習する様なチャンスを与えてくれるものだなと思いました。
父の時もそうでしたが、最後にコレをやっていないでしょう?と、夫婦の時間を与えて逝きました。
私たちは、観念や正しさみたいなものにつられて、「こうでなければ幸せにならない」と思い込んでいるのではないでしょうか?
幸せはその人が感じるもので、周りが決めるものではないのだと思います。
私のやり残したことはなんなのだろう?
そんな事を思いながら、母の施設を後にして帰って来ました。
私には持て余す大きな家を《重荷》だと感じていた私がいました。

母が居なくなって、細々した用事をこなしたり
YouTube配信の度にここに帰って来ます。
なんとなく、この家が馴染んできました。
負担ではなくなって来ました。
今日も、寒波でサラサラの昨夜の雪が風に煽られて粉雪の舞う庭先に母の洗濯物が揺れています。
「ありがとう」
なんだかわからないけど「ありがとう」
生きとし生けるものが幸せでありますように。
