「お母さんは、自分の意見と言うものは無いの?!」

一昔前に娘に言われていた言葉です。
自分の意見?
無かった!
あったけど、無いことにした。
無いことにしなければ
怖くて過呼吸になりそうだった。
反射的にイエスマンになる。
そして、時間が経って
自分の意見、意志が出る。
イエスマンになりたくはなかった。
でも、イエスマンになってしまった。
その時に
悔しさが現れるときもあれば
またやっちまった、という後悔がわく時もありました。
わからない人には
わからないのだろうなぉ…と思ってしまう事もありました。
この反射的にイエスマンになってその場をしのごうとしてしまう心理状態。
これは、過去の経験から
こうなれば→こうなる=痛い思いをする
方程式が組上がってしまっていて
たった一度の大きな痛みが作るものもあれば
小さな痛みが何度も何度も積み上がって
(あえて集めているのだけど)
この方程式を取り壊す事は
棘(イバラ)の道をはだかで歩くくらいの覚悟か、
自棄にならないと出来ないことのひとつなのです。
私の場合は『イエスマン』でしたが
人によっては
否定ばかりしてしまうとか、
笑いたくないのに笑ってしまう
というようなことです。
もっと他にしたいことがあるのに
いつも『同じ行動になる』
のだとすれば
そうなる原因になりような、過去の経験があることが多くて
私の場合は
娘の気に入らない言動をすれば
娘が行方不明になるとか、引きこもる。
回りのものを投げて割る
割れた欠片で自分を切りつける。
その他、思春期にありがちな死の誘惑など…
「死んでしまったらどうしよう」とか、一人では抱えきれない感情に対して
何とかここを切り抜けたい!という思いとか
二度とこういう思いをさせたくないし、自分もしたくない。と、強く思ったものです。
その娘の思春期に、誰にも頼れないと思い込んだ私が、一人で何とかしようと頑張っていたあのときの、独りよがりで、傲慢だった自分が浮かび上がりました。
その時に『ちゃんとしなきゃ』バカにされる
ダメなやつだと思われる。
あらゆるネガティブな感情がドッと押し寄せるのです。
この向こうにある【無価値感】がウズいているのでしょう。
誰かと、まだまだ戦っているのでしょう。
これは、娘がどうしたから、こうしたからというものではなくて、事実としてその時はそう感じた自分がいて、その感情が今も残っていて
その方程式が、瞬時に現れる反射反応なのだと思います。
こういう時の癒し方としては
まずは
何に対して反応しているのかという事を知る事って必要なのかな?と思います。
そして
なぜ、そこまで怯えてしまうのか?
という、そのときの感情を思い出してみることでしょうか?
ただ、この部分に関しては
一人で感じるのはあまりにも怖すぎることが多いと思うのです。
出来れば、カウンセラーなり、心をゆるせる誰かを側にいてもらってほしいですね。
出てきた感情に 否定も肯定もせずに
『そう思ったんだ』
『そう感じたんだ』
だから、今、こんなにも怖さが出てしまうんだね?
という感じでしょうか?
私はこの時に、ものすごい怒りを感じてしまいました。
悔しかったのです。
愛からの行動だったはずなのに
大切に思うから、傷ついてほしくないと思って
私はイエスマンになったはずなのに
それがもう、必要なくなった今も、あのときの方程式の縛りが効いていて『ノー』を言えない。
そして、時間経てば自己攻撃に変わる。
次はちゃんと意見を出そうと思うと、そこにはものすごい無理があるから、挙動不審な私がいて、イエスなのかノーなのかが分からない。
結果、イエスマンになっていた方が正解だったような…
そんな経験をいっぱいして
たどり着いた方法は
【意識を持って 少しずつ】
何か、いつもこうなる という行動をしてしまって「また、やってる」と、客観的に見て、どうなるのが怖かったのだろう?と、考えてみるのですよ。
そうなんです。
今やった、行動は、反射的に何かのおそれを回避したのですよね。
それはどんな感情だったのだろう?
そして、本当にそんな怖いことになるのだろうか?
昔はそうだったとしても
今、同じようなことが起こるのだろうか?
自分も成長し、相手がいるのなら、相手も成長しているのでは無いだろうか?
または
環境が変わって、状況も変わっているのでは無いだろうか?と、思い巡らしてみるのです。
そうすると「もしかしたら、思っているような
怖いことにならないかも知れない」という感覚が沸き上がってきたら、その感覚を大切にじっくりと味わってみてください。
その感覚は、自分を信頼感することであり、誰かを信頼することなのだと思います。
それが出来たからといって、次にその怖さが全く無くなるか?というと、全くは無くならないと思います。
でも、繰り返していくうちに、薄れてくるのですよね。
面談では、これを練習していくことがあります。
少し前の私が相談に来たとして「イエスマンになってしまうので、思ったことをそのまま言えるようになりたい」という内容に対して
何故そういう気持ちになるのか?という過去の経験を、ゆっくり、ゆっくり、探しながら
その時はそう思った自分、すごく怖かったその子の気持ちに寄り添うこともしながら
今同じことが起きるのかなぁ?
というものも一緒に見ていこうとします。
こういう時にこう言いたかった。
そうなると、やっと実生活で、イエスマンにならずに自分の意見を言える機会が増えてきて
それでも、怖さが出てくるたびに、同じ事を繰り返していきます。
実生活では、怖いことが起こらなかった。という体験を積み重ねていくのです。





一昔前に娘に言われていた言葉です。
自分の意見?
無かった!
あったけど、無いことにした。
無いことにしなければ
怖くて過呼吸になりそうだった。
反射的にイエスマンになる。
そして、時間が経って
自分の意見、意志が出る。
イエスマンになりたくはなかった。
でも、イエスマンになってしまった。
その時に
悔しさが現れるときもあれば
またやっちまった、という後悔がわく時もありました。
わからない人には
わからないのだろうなぉ…と思ってしまう事もありました。
この反射的にイエスマンになってその場をしのごうとしてしまう心理状態。
これは、過去の経験から
こうなれば→こうなる=痛い思いをする
方程式が組上がってしまっていて
たった一度の大きな痛みが作るものもあれば
小さな痛みが何度も何度も積み上がって
(あえて集めているのだけど)
この方程式を取り壊す事は
棘(イバラ)の道をはだかで歩くくらいの覚悟か、
自棄にならないと出来ないことのひとつなのです。
私の場合は『イエスマン』でしたが
人によっては
否定ばかりしてしまうとか、
笑いたくないのに笑ってしまう
というようなことです。
もっと他にしたいことがあるのに
いつも『同じ行動になる』
のだとすれば
そうなる原因になりような、過去の経験があることが多くて
私の場合は
娘の気に入らない言動をすれば
娘が行方不明になるとか、引きこもる。
回りのものを投げて割る
割れた欠片で自分を切りつける。
その他、思春期にありがちな死の誘惑など…
「死んでしまったらどうしよう」とか、一人では抱えきれない感情に対して
何とかここを切り抜けたい!という思いとか
二度とこういう思いをさせたくないし、自分もしたくない。と、強く思ったものです。
その娘の思春期に、誰にも頼れないと思い込んだ私が、一人で何とかしようと頑張っていたあのときの、独りよがりで、傲慢だった自分が浮かび上がりました。
その時に『ちゃんとしなきゃ』バカにされる
ダメなやつだと思われる。
あらゆるネガティブな感情がドッと押し寄せるのです。
この向こうにある【無価値感】がウズいているのでしょう。
誰かと、まだまだ戦っているのでしょう。
これは、娘がどうしたから、こうしたからというものではなくて、事実としてその時はそう感じた自分がいて、その感情が今も残っていて
その方程式が、瞬時に現れる反射反応なのだと思います。
こういう時の癒し方としては
まずは
何に対して反応しているのかという事を知る事って必要なのかな?と思います。
そして
なぜ、そこまで怯えてしまうのか?
という、そのときの感情を思い出してみることでしょうか?
ただ、この部分に関しては
一人で感じるのはあまりにも怖すぎることが多いと思うのです。
出来れば、カウンセラーなり、心をゆるせる誰かを側にいてもらってほしいですね。
出てきた感情に 否定も肯定もせずに
『そう思ったんだ』
『そう感じたんだ』
だから、今、こんなにも怖さが出てしまうんだね?
という感じでしょうか?
私はこの時に、ものすごい怒りを感じてしまいました。
悔しかったのです。
愛からの行動だったはずなのに
大切に思うから、傷ついてほしくないと思って
私はイエスマンになったはずなのに
それがもう、必要なくなった今も、あのときの方程式の縛りが効いていて『ノー』を言えない。
そして、時間経てば自己攻撃に変わる。
次はちゃんと意見を出そうと思うと、そこにはものすごい無理があるから、挙動不審な私がいて、イエスなのかノーなのかが分からない。
結果、イエスマンになっていた方が正解だったような…
そんな経験をいっぱいして
たどり着いた方法は
【意識を持って 少しずつ】
何か、いつもこうなる という行動をしてしまって「また、やってる」と、客観的に見て、どうなるのが怖かったのだろう?と、考えてみるのですよ。
そうなんです。
今やった、行動は、反射的に何かのおそれを回避したのですよね。
それはどんな感情だったのだろう?
そして、本当にそんな怖いことになるのだろうか?
昔はそうだったとしても
今、同じようなことが起こるのだろうか?
自分も成長し、相手がいるのなら、相手も成長しているのでは無いだろうか?
または
環境が変わって、状況も変わっているのでは無いだろうか?と、思い巡らしてみるのです。
そうすると「もしかしたら、思っているような
怖いことにならないかも知れない」という感覚が沸き上がってきたら、その感覚を大切にじっくりと味わってみてください。
その感覚は、自分を信頼感することであり、誰かを信頼することなのだと思います。
それが出来たからといって、次にその怖さが全く無くなるか?というと、全くは無くならないと思います。
でも、繰り返していくうちに、薄れてくるのですよね。
不思議ですけれど。
面談では、これを練習していくことがあります。
少し前の私が相談に来たとして「イエスマンになってしまうので、思ったことをそのまま言えるようになりたい」という内容に対して
何故そういう気持ちになるのか?という過去の経験を、ゆっくり、ゆっくり、探しながら
その時はそう思った自分、すごく怖かったその子の気持ちに寄り添うこともしながら
今同じことが起きるのかなぁ?
というものも一緒に見ていこうとします。
こういう時にこう言いたかった。
こんな態度を取りたかった。
を再現してもらいながら、そのときの気持ち、怖さを共有することで、一人で抱えなくても良いという感覚や『本当にそうなるのだろうか?』を解いて行くことを気長に繰り返します。
すると
回を重ねるごとに
最初に感じた怖さが薄らいで行くことが多いのです。
を再現してもらいながら、そのときの気持ち、怖さを共有することで、一人で抱えなくても良いという感覚や『本当にそうなるのだろうか?』を解いて行くことを気長に繰り返します。
すると
回を重ねるごとに
最初に感じた怖さが薄らいで行くことが多いのです。
そうなると、やっと実生活で、イエスマンにならずに自分の意見を言える機会が増えてきて
それでも、怖さが出てくるたびに、同じ事を繰り返していきます。
実生活では、怖いことが起こらなかった。という体験を積み重ねていくのです。




