こんにちは三好成子です。
今日は右脳が働かなかったので
文字だけになってしまいました。



子供の頃、自分を守ってくれるべき人…例えば、親だとか、教師(大人全般かも知れないそういう人たち)という立場の人に対して望んだ通りの愛をもらっていないと思っている事があります。
「私が助けてほしいときに、その時に思ったように助けてくれなかったくせに!」という思いがあると
ある程度成長した今、どんなに困っても、助けてと言えなくなるということがあります。
すごく怒ってしまっている状態、幻滅してしまった状態と言えます。
この子供のころのような、助けてほしいと思うのに助けてといえないのは本当に辛く苦しいものですよね。
この、誰かに守ってもらっている時期を心理学では《依存の時期》と言います。
例えば、赤ちゃんの時代や、新入社員のころもこの時期に当たります。
恋愛の始まりのころも依存の時期になります。
誰かに愛してもらうことや、面倒を見てもらわないと一人では何もできないと思う時期です。
この時期にも自分なりの愛してもらいたい、面倒を見てもらいたい方法というものがあるのだと思います。
それなのに、自分の思うように助けてもらえなかったと思うことで傷つき、人に頼っていたから傷ついたと思い込むようです。
赤ちゃん時代から、子どもに移り変わるときの、しつけというものも、子供にとっては傷つく体験だとも言われているくらいです。
恋愛ならば、彼(彼女)に求めても、思うように愛してもらえなかったら「もう求めない」、「もう、甘えたりすがったりしなくても生きていけるようになる!」と思うこともそのようです。
会社であれば、今までは何を聞いても教えてくれていた先輩や上司から「もう、君はできるだろ?」と言われてしまう時に、今までとは違う対応に突き放されたように感じる瞬間もあるだろうと思います。
このように、「甘えていたから、頼ったから傷ついたのだ」と思い込んでしまうと、誰にも頼らないでもいいように一人でも頑張れるようになろうとします。
もうあの痛みは感じたくないと思い、人に頼ったり、甘えたりしなくなります。
これが 心理学で言う《自立》という時期なのです。
私にとってこの依存の傷を意識したのは離婚前後でした。
彼が居ないと生きていけないと思って彼にすがっていた時でした。
それでもどうにもならないと感じた時に依存の傷、痛みを感じたものでした。
今思うと当たり前なのですが、お願いしたところで彼の気持ちが変わらないと知った時に、落胆とともにこの依存が自立にくるりとひっくり返る感じがしたのです。
「あ、そ!」という感覚です。
吹っ切れたと言いますか「わかりました、私はあなたに頼らずに生きていきます。」という覚悟ができた瞬間だったと思います。
落胆に怒りが入り混じった感覚です。
「もう頼らない!」という強い思いです。
極端に依存から自立へ反転したみたいです。
この気持ちになるまでに2年はかかっています。
すがって、なんとか戻ってもらおう、この辛い気持ちを癒してもらおうとしていたわけですが
何をしても思うようにならないし、なんだか自尊心がどんどん削られていく気がしてきました。
二年もそんな事をしていれば、そんな自分もみじめに感じたのです。
そして、私から離婚を宣言し、手続きもすべて私がやりました。
「もういい!」
その勢いで、別れたくないと言っていた私が真逆に「離婚して」に急変したのですから、彼はその変化に驚いたと思います。
もう、依存時代の自分が嫌いすぎて目を瞑って突っ込んでいくぐらいの勢いで自立に転じました。
彼の方も、当時彼女と一緒に住んでいたにもかかわらず決断できないままでいましたから、ホッとした反面、いろんな感情が上がってきているようでした。
そこからの私は、もう依存してみじめだった自分には戻りたくないという一心で、ひたすら自立の道を行くことになります。
自立と言っても本物の自立では無かったのですが・・・
この自立という時期は、一人で頑張る分、本当に疲れてしまいます。
もうだめかもしれないとまで思っても、誰にも助けを求めることができないことも多くなってしまいます。
差し伸べてくれる手も振り払ってしまうこともあるのです。
特に、依存の時代に助けてほしかったけれど、思うように助けてくれないと思ってしまった人にはどんなに苦しくても、助けさせないということがあります。
そうすることで依存の時期、すごく助けてほしかったり、ちゃんと甘えさせてくれなかった人に「助けてあげる」と言われても「今さら何よ!」という感じになってしまうのです。
「あの時、助けて欲しくてたまらなかったときにちゃんと面倒見てくれなかったくせに、今さら遅いわよ!」と怒っているのです。
まるであの時の復讐をしているようなものなのです。
復讐をしたい(あくまでも無意識で)相手に助けられないもどかしさや、罪悪感や無力感を持たせようとしている場合もあります。
そのようなことをしていても誰も幸せにはなれないのはわかっていても、助けてもらうことに抵抗がありすぎるというパターンです。
傷が痛すぎるのです。
でも、それを続けていくことで、周りとの関係性が悪くなってしまうことがあるように思います。
孤立したり、怒りをため込んでしまったりと、あまりいいことはないようです。
このようなことは、周りにいる人達もしんどいのですが、何よりも一人で抱え込んでしまっている分、自分もとても辛く、孤立感が生まれてしまいます。
誰も、好きでやっているわけではないのですが、もう傷つきたくないという思いがどうしても、人に助けを求めることが出来なくなっているのです。
とても怖いのです。
では、どうすればこの状態を楽にしていけるのでしょう?
それは、今の自分が何を感じているのかをしっかりと理解していくという事です。
例えば
昔、思うように助けてくれなかったと怒っている私。
その怒りを持っているために『助けさせてやるもんか』と一人で頑張ってしまう私。
助けてほしいのに、もう、これ以上頑張れないのに一人でなんとかしようとしている自分がいる事をちゃんと知っておくのが大切なんですね。
心の中で あの時の あの人を 責めている。
あなたのせいよ
あなたが もうちょっと ・・・してくれていたら・・・
どんなに辛かったか、わかる?
どんなに我慢したか。わからせてあげたい。
というような自分の責任以外にしている事はないだろうか?って事もこの先の一歩のために考えてみたいですね。
その思い(自分以外の人を責める)は その人よりも今の私を苦しめるんです。
あの時の私の怒りが 今の私を苦しめるんです。
そんなこと・・・わかっているけど・・・
どうしたら、今の苦しさが楽になるか?って考えに考えた先に「こういうことかもしれない」が浮かび上がってきます。
その時(自分が依存の時代に居た時)に、自立側に居ただろう人…例えば親だったり、教師だったり
私の例で言えば旦那さんだったのですが、自分を守ってくれる『べき』だと思っていた人の立場や、事情というものを理解していくということなのです。
…
それが簡単に出来るくらいなら、もう、やっていますよね?
なぜ、簡単には出来ないと感じるのでしょうね。
それこそが長年持ち続けてきた 感情 という厄介なものにぶち当たります。
感情は長年抱えてきたものほどしがみつくんです。
もしかすると、それがモチベーションとなって自分を支えていたかも知れない、自分にとってのパワーの源だったりしますからね。
悔しいから頑張った。負けるものか!と奮い立たせてきたこの感覚を、緩めてしまうと、どうなってしまうのかと思うんですよね。
また、あのころの、みじめな何もできない自分に返ってしまうのではないかと思う怖さが襲ってくるんです。
でも、考えてみて欲しいのは、あのころと今のあなたは違うのですよね。
あれからすごく頑張ってきて今があって、何もわからなくて、何を助けてほしいのかさえ分からなくて
弱々しかったあのころとは違うのですよね。
「自分で出来ることはいっぱいあって出来るけれども、手助けしてもらったら すごく助かる。」っていう事も言えるはずです。
「あれもこれも出来ないから出来ることはするから、できないことは助けて欲しいの。」ということもできるはずです。
依存時代の自分を嫌って自立したけれど、自立をしすぎるとどんどん孤立していくんです。
怒りとともに自立したけれど、その怒りはどこにあったのかというと
「思い通りにしてくれなかったあの人たち」です。
今のわたしが、やろうと思ってもあれもこれもできない・・・
すべてを完璧に、上手に、思い通りに、出来ない・・・
これってあの時の『あの人』達もそうだったのかなぁ?と、思い浮かべてみた時に
自分が思うように助けてくれないと責めていたあの人たちも、今の自分のように、いっぱいいっぱいだったのかな?
あの人達も普通の人間でいろんな事を、わたしが思っていたよりも『知らなかった』のかも知れないな?と、思ってみると、思い通りにやってくれないと怒っていたあの人たちに対する怒りも減ってくる気がしませんか?
有名な書家、詩人の 相田みつをさんの『にんげんだもの』という言葉にも表れているように
人間というものは不完全であり、それでも一生懸命生きている 可愛い生き物なのだと、私は思うのです。
その時その時に出来ないには、出来ないなりの 理由があると思うのです。
自立側とみられている人間も不完全な生き物だったのだということを理解してみようかな?というのも
自分を楽にするためにも考えてみて頂きたいと思います。
子供の時代は、親や、大人というものは完璧だと思っていたけれど、いざ、自分が大人になってみると全くイケてないし、私も、あの頃の親の年になってみたらなんて不完全でダメダメなんだろうと思うのですよ。
例えば、離婚に至った彼の行動にしてもそうなんですよね。
彼には彼の切なさがあって、わたしが思っていたほどの完璧さを持っているわけではなかったけど、一生懸命な人間がそこに居た、ということなのでしょう。
そうなるにはそうなる理由があったのだろうと思います。
二人の間に、別の人が入り込んできても仕方がなかったような状況がそこにあったのだろうと思うのです。
誰が悪いだれが正しいというものではなく、人は完璧ではなく出来ないには出来なかった理由があるのだと、思えるようになると自分が、大人になったり、自立側の立場になった時にとても楽に生きていけるように思います。
私たちは、依存の時代、自立側の人を責めている度合いだけ自立側、大人になるのを怖がってしまうようです。
自分が責めていたのと同じように、大人になった自分はすごく攻められて攻撃されて、完璧にならないといけないように思えてしまうからです。
そういうところも理解できるようになれれば、ちゃんと助けてくれなかったと責めていた あの人の、出来ないなりの理由や、やろうとしてくれていたけれど出来なかったのだろうという側面を理解できるようになれば、今度はあなた自身の出来ないところも 自分で許せるようになるのかな?とも、思います。
出来ない自分を認めて出来ない部分を、出来そうな人にお願いすることができるようになると、人間関係もいまよりももっと良くなるのではないでしょうか。
怒っていた自分も認めてあげて
してくれなかったあの人のことも ちょっと理解してあげて
助けてもらえるところは助けてもらえるようになって、もっともっと楽に生きていけると良いですね♪
人は、誰かの役に立ちたいと思う生き物だと言われています。
あなたの役に立ちたいと心から願って居る人は、あなたが思っている以上にたくさんいてくれるのだと、思います。
あなたの「助けて」はだれかの喜びや、生きる力になっている事もあります。
あなたを助けることができる喜びを感じる人もいるはずです。
いっぱい傷ついて、もう二度と誰にも頼るもんかと怒りで分離した人との距離を
ちょっとだけ詰めてみてくださいね。
生きるのがちょっと楽になると思います。
今日は殺風景なブログだったので
庭のハスを載せておきます

あと、昨日の畑の収穫




今日は右脳が働かなかったので
文字だけになってしまいました。


子供の頃、自分を守ってくれるべき人…例えば、親だとか、教師(大人全般かも知れないそういう人たち)という立場の人に対して望んだ通りの愛をもらっていないと思っている事があります。
「私が助けてほしいときに、その時に思ったように助けてくれなかったくせに!」という思いがあると
ある程度成長した今、どんなに困っても、助けてと言えなくなるということがあります。
すごく怒ってしまっている状態、幻滅してしまった状態と言えます。
この子供のころのような、助けてほしいと思うのに助けてといえないのは本当に辛く苦しいものですよね。
この、誰かに守ってもらっている時期を心理学では《依存の時期》と言います。
例えば、赤ちゃんの時代や、新入社員のころもこの時期に当たります。
恋愛の始まりのころも依存の時期になります。
誰かに愛してもらうことや、面倒を見てもらわないと一人では何もできないと思う時期です。
この時期にも自分なりの愛してもらいたい、面倒を見てもらいたい方法というものがあるのだと思います。
それなのに、自分の思うように助けてもらえなかったと思うことで傷つき、人に頼っていたから傷ついたと思い込むようです。
赤ちゃん時代から、子どもに移り変わるときの、しつけというものも、子供にとっては傷つく体験だとも言われているくらいです。
恋愛ならば、彼(彼女)に求めても、思うように愛してもらえなかったら「もう求めない」、「もう、甘えたりすがったりしなくても生きていけるようになる!」と思うこともそのようです。
会社であれば、今までは何を聞いても教えてくれていた先輩や上司から「もう、君はできるだろ?」と言われてしまう時に、今までとは違う対応に突き放されたように感じる瞬間もあるだろうと思います。
このように、「甘えていたから、頼ったから傷ついたのだ」と思い込んでしまうと、誰にも頼らないでもいいように一人でも頑張れるようになろうとします。
もうあの痛みは感じたくないと思い、人に頼ったり、甘えたりしなくなります。
これが 心理学で言う《自立》という時期なのです。
私にとってこの依存の傷を意識したのは離婚前後でした。
彼が居ないと生きていけないと思って彼にすがっていた時でした。
それでもどうにもならないと感じた時に依存の傷、痛みを感じたものでした。
今思うと当たり前なのですが、お願いしたところで彼の気持ちが変わらないと知った時に、落胆とともにこの依存が自立にくるりとひっくり返る感じがしたのです。
「あ、そ!」という感覚です。
吹っ切れたと言いますか「わかりました、私はあなたに頼らずに生きていきます。」という覚悟ができた瞬間だったと思います。
落胆に怒りが入り混じった感覚です。
「もう頼らない!」という強い思いです。
極端に依存から自立へ反転したみたいです。
この気持ちになるまでに2年はかかっています。
すがって、なんとか戻ってもらおう、この辛い気持ちを癒してもらおうとしていたわけですが
何をしても思うようにならないし、なんだか自尊心がどんどん削られていく気がしてきました。
二年もそんな事をしていれば、そんな自分もみじめに感じたのです。
そして、私から離婚を宣言し、手続きもすべて私がやりました。
「もういい!」
その勢いで、別れたくないと言っていた私が真逆に「離婚して」に急変したのですから、彼はその変化に驚いたと思います。
もう、依存時代の自分が嫌いすぎて目を瞑って突っ込んでいくぐらいの勢いで自立に転じました。
彼の方も、当時彼女と一緒に住んでいたにもかかわらず決断できないままでいましたから、ホッとした反面、いろんな感情が上がってきているようでした。
そこからの私は、もう依存してみじめだった自分には戻りたくないという一心で、ひたすら自立の道を行くことになります。
自立と言っても本物の自立では無かったのですが・・・
この自立という時期は、一人で頑張る分、本当に疲れてしまいます。
もうだめかもしれないとまで思っても、誰にも助けを求めることができないことも多くなってしまいます。
差し伸べてくれる手も振り払ってしまうこともあるのです。
特に、依存の時代に助けてほしかったけれど、思うように助けてくれないと思ってしまった人にはどんなに苦しくても、助けさせないということがあります。
そうすることで依存の時期、すごく助けてほしかったり、ちゃんと甘えさせてくれなかった人に「助けてあげる」と言われても「今さら何よ!」という感じになってしまうのです。
「あの時、助けて欲しくてたまらなかったときにちゃんと面倒見てくれなかったくせに、今さら遅いわよ!」と怒っているのです。
まるであの時の復讐をしているようなものなのです。
復讐をしたい(あくまでも無意識で)相手に助けられないもどかしさや、罪悪感や無力感を持たせようとしている場合もあります。
そのようなことをしていても誰も幸せにはなれないのはわかっていても、助けてもらうことに抵抗がありすぎるというパターンです。
傷が痛すぎるのです。
でも、それを続けていくことで、周りとの関係性が悪くなってしまうことがあるように思います。
孤立したり、怒りをため込んでしまったりと、あまりいいことはないようです。
このようなことは、周りにいる人達もしんどいのですが、何よりも一人で抱え込んでしまっている分、自分もとても辛く、孤立感が生まれてしまいます。
誰も、好きでやっているわけではないのですが、もう傷つきたくないという思いがどうしても、人に助けを求めることが出来なくなっているのです。
とても怖いのです。
では、どうすればこの状態を楽にしていけるのでしょう?
それは、今の自分が何を感じているのかをしっかりと理解していくという事です。
例えば
昔、思うように助けてくれなかったと怒っている私。
その怒りを持っているために『助けさせてやるもんか』と一人で頑張ってしまう私。
助けてほしいのに、もう、これ以上頑張れないのに一人でなんとかしようとしている自分がいる事をちゃんと知っておくのが大切なんですね。
心の中で あの時の あの人を 責めている。
あなたのせいよ
あなたが もうちょっと ・・・してくれていたら・・・
どんなに辛かったか、わかる?
どんなに我慢したか。わからせてあげたい。
というような自分の責任以外にしている事はないだろうか?って事もこの先の一歩のために考えてみたいですね。
その思い(自分以外の人を責める)は その人よりも今の私を苦しめるんです。
あの時の私の怒りが 今の私を苦しめるんです。
そんなこと・・・わかっているけど・・・
どうしたら、今の苦しさが楽になるか?って考えに考えた先に「こういうことかもしれない」が浮かび上がってきます。
その時(自分が依存の時代に居た時)に、自立側に居ただろう人…例えば親だったり、教師だったり
私の例で言えば旦那さんだったのですが、自分を守ってくれる『べき』だと思っていた人の立場や、事情というものを理解していくということなのです。
…
それが簡単に出来るくらいなら、もう、やっていますよね?
なぜ、簡単には出来ないと感じるのでしょうね。
それこそが長年持ち続けてきた 感情 という厄介なものにぶち当たります。
感情は長年抱えてきたものほどしがみつくんです。
もしかすると、それがモチベーションとなって自分を支えていたかも知れない、自分にとってのパワーの源だったりしますからね。
悔しいから頑張った。負けるものか!と奮い立たせてきたこの感覚を、緩めてしまうと、どうなってしまうのかと思うんですよね。
また、あのころの、みじめな何もできない自分に返ってしまうのではないかと思う怖さが襲ってくるんです。
でも、考えてみて欲しいのは、あのころと今のあなたは違うのですよね。
あれからすごく頑張ってきて今があって、何もわからなくて、何を助けてほしいのかさえ分からなくて
弱々しかったあのころとは違うのですよね。
「自分で出来ることはいっぱいあって出来るけれども、手助けしてもらったら すごく助かる。」っていう事も言えるはずです。
「あれもこれも出来ないから出来ることはするから、できないことは助けて欲しいの。」ということもできるはずです。
依存時代の自分を嫌って自立したけれど、自立をしすぎるとどんどん孤立していくんです。
怒りとともに自立したけれど、その怒りはどこにあったのかというと
「思い通りにしてくれなかったあの人たち」です。
今のわたしが、やろうと思ってもあれもこれもできない・・・
すべてを完璧に、上手に、思い通りに、出来ない・・・
これってあの時の『あの人』達もそうだったのかなぁ?と、思い浮かべてみた時に
自分が思うように助けてくれないと責めていたあの人たちも、今の自分のように、いっぱいいっぱいだったのかな?
あの人達も普通の人間でいろんな事を、わたしが思っていたよりも『知らなかった』のかも知れないな?と、思ってみると、思い通りにやってくれないと怒っていたあの人たちに対する怒りも減ってくる気がしませんか?
有名な書家、詩人の 相田みつをさんの『にんげんだもの』という言葉にも表れているように
人間というものは不完全であり、それでも一生懸命生きている 可愛い生き物なのだと、私は思うのです。
その時その時に出来ないには、出来ないなりの 理由があると思うのです。
自立側とみられている人間も不完全な生き物だったのだということを理解してみようかな?というのも
自分を楽にするためにも考えてみて頂きたいと思います。
子供の時代は、親や、大人というものは完璧だと思っていたけれど、いざ、自分が大人になってみると全くイケてないし、私も、あの頃の親の年になってみたらなんて不完全でダメダメなんだろうと思うのですよ。
例えば、離婚に至った彼の行動にしてもそうなんですよね。
彼には彼の切なさがあって、わたしが思っていたほどの完璧さを持っているわけではなかったけど、一生懸命な人間がそこに居た、ということなのでしょう。
そうなるにはそうなる理由があったのだろうと思います。
二人の間に、別の人が入り込んできても仕方がなかったような状況がそこにあったのだろうと思うのです。
誰が悪いだれが正しいというものではなく、人は完璧ではなく出来ないには出来なかった理由があるのだと、思えるようになると自分が、大人になったり、自立側の立場になった時にとても楽に生きていけるように思います。
私たちは、依存の時代、自立側の人を責めている度合いだけ自立側、大人になるのを怖がってしまうようです。
自分が責めていたのと同じように、大人になった自分はすごく攻められて攻撃されて、完璧にならないといけないように思えてしまうからです。
そういうところも理解できるようになれれば、ちゃんと助けてくれなかったと責めていた あの人の、出来ないなりの理由や、やろうとしてくれていたけれど出来なかったのだろうという側面を理解できるようになれば、今度はあなた自身の出来ないところも 自分で許せるようになるのかな?とも、思います。
出来ない自分を認めて出来ない部分を、出来そうな人にお願いすることができるようになると、人間関係もいまよりももっと良くなるのではないでしょうか。
怒っていた自分も認めてあげて
してくれなかったあの人のことも ちょっと理解してあげて
助けてもらえるところは助けてもらえるようになって、もっともっと楽に生きていけると良いですね♪
人は、誰かの役に立ちたいと思う生き物だと言われています。
あなたの役に立ちたいと心から願って居る人は、あなたが思っている以上にたくさんいてくれるのだと、思います。
あなたの「助けて」はだれかの喜びや、生きる力になっている事もあります。
あなたを助けることができる喜びを感じる人もいるはずです。
いっぱい傷ついて、もう二度と誰にも頼るもんかと怒りで分離した人との距離を
ちょっとだけ詰めてみてくださいね。
生きるのがちょっと楽になると思います。
今日は殺風景なブログだったので
庭のハスを載せておきます


あと、昨日の畑の収穫




最後にももちゃん

